2024年3月10日(日本時間11日)に開催された第96回アカデミー賞授賞式で、ロバート・ダウニー・Jrとエマ・ストーンが、それぞれ前年の受賞者でありアジア系のキー・ホイ・クァンとミシェル・ヨーを軽視した振る舞いをしたと炎上している。(わずか1週間で完全に過去の話題となったが)
差別というのは無意識に行動に現れるものであるという意見もわかるが、他人の内心を決めつけるべきではないとも思うので(前年の受賞者に対する礼を失しているとは思う)、この問題について私が書くことはしないが、しかしハリウッドにアジア差別のようなものが存在するのは間違いないだろう。
別に私はハリウッドの人間でもないので、ハリウッドで差別的な扱いを受けたことはないが、ハリウッドで評価されている作品から「この描写はいかがなものか」と感じることは多々ある。(もちろん、「無理して配慮してアジア人の登場人物を出してくれなくてもいいよ……」と思うことの方が多いかもしれないが)
昨年日本で公開された『TAR/ター』という映画は、アカデミー賞で7部門でノミネートされ、2023年のキネマ旬報ベスト・テンで「外国映画ベスト・ワン」に選ばれるなどアメリカのみならず日本でも評価された映画だが、私はこの映画のオチがかなりアジア人差別的ではないかとモヤモヤした。
「映画の結末」に対する論評の必要上、一定のネタバレになってしまうので、この記事をよんでいただける場合はそのことをご了承いただければと思う。
映画『TAR/ター』あらすじ
はじめに『TAR/ター』のあらすじを軽く紹介したいと思う。
ケイト・ブランシェット演じる主人公リディア・ターは、世界最高峰のオーケストラであるドイツのベルリン・フィルで、女性として初めて首席指揮者に任命された人物である。
物語は彼女の自伝が発売されたタイミングで行われたテレビのインタビューから始まり(これは私たち日本人にはよくわからないが、アメリカの実在のテレビ番組の体裁をとっているらしい)、彼女の輝かしい栄光が描かれる。
しかし、次第に彼女の「危うさ」が描かれるようになる。
彼女は自身が教えるジュリアード音楽院で、生徒たちを指導している。その中で彼女はマックスという学生を指導し、バッハを学ぶことを推奨する。
しかしマックスは、バッハが女性差別的だとして全否定する。ターは芸術面での功績と私生活を分けて考えるように諭すがマックスは聞き入れず、ターは彼を罵倒する。
ーーこう書くとマックスの方が問題がありそうに思えるが(ターの罵倒も必要以上で人格に問題があることが示されるが)、次第にリディア・ターという人間のかかえる大きな問題が描かれるようになる。
ターはレズビアンでありパートナーもいるが、オーケストラの女性団員に対して、しばしば贔屓をしていた。
またパートナーがいながら、秘書に女性をつけて(秘書は指揮者の見習いであり、秘書が指揮者として成功することができるかどうかはターの推薦次第である)。
結局リディア・ターという人物は、恣意的な人事を振りかざすパワハラ権力者であり、(強制的に事に及ぶことはしないものの)セクハラ的な脅迫を常習的に行う、旧時代の人物である。
レズビアンとして、女性初の主席指揮者としての進歩的な自分のイメージは完全に虚飾だったのだ。
(さらに言うと、この「リディア・ター」というどこかクラシックな響きのある名前も偽りなのだが)
映画『TAR/ター』感想
こうした化けの皮が剥がされていき、どんどんリディア・ターという人物は世の中からパージされていく。
一瞬にして掌を返す社会の恐ろしさも感じるが、ターが問題のある人物であったのは明らかで、遅かれ早かれターはこうなる運命にあっただろう。
『TAR/ター』のラスト
そして物語のラスト、もはや欧米にいることができなくなったターは、フィリピンに行く。
そしてクラシックではなく、ゲーム音楽(モンスターハンター)のコンサートを指揮する。
コスプレをした観衆に見守られながら。
ターの物語としてみれば、ターは音楽への情熱を失わなかったと言うような美談なのかもしれない。しかし「ヨーロッパを終われたパワハラ・セクハラ芸術家がアジアに行きました」というオチは、どうもアジア人を下に見ているとしか思えないだろう。
この映画の途中では『地獄の黙示録』を引用しており、この映画を引用する以上は「主人公がアジアに行く」ということは必然なのかもしれない。しかしコロニアリズムを感じざるを得ない。
アジア人への視線
クラシックからゲーム音楽へというオチ、そして観客がコスプレをしている絵で終わるというオチに面白さはあったと思うのだが。(実際に私も初見では「なんだこれ」と吹き出しそうになったのは事実である)
別にこの結末を「アジア人差別ではない」と擁護するレトリックは存在すると思う。作中には、いかにアジア人にとって白人の勝手が迷惑かというような描写もある。
だかが、普通に見ればこの作品のこのオチはアジアを軽視しているという感想を抱くだろう。
結局、クラシック界にヒエラルキーが存在する以上。「主人公が都落ちする」ストーリーを描く以上、「都落ち先」の場所をどこか取り上げる必要があるのだから、ストーリーの描写的に「アジアで、ゲーム音楽を演奏する」という設定になったのは仕方がないのかもしれない。すべての方面から悲観を受けない「完璧な芸術作品」を作るのは難しいと思うが、しかしアジア人としてはこの映画の結末は複雑な気持ちになるな……と思ったものであった。
ロバート・ダウニー・ジュニアの炎上などを観ると、私たちの中に(人種差別ではなく、一種のよそものに対する)外国人差別の感情が一切ないのかというと全くないとはいえないと思うし、改めて気をつけようと感じた。
おわりに
また、今回の記事ではきちんと書かなかったが、リディア・ターが女性でありレズビアンであるという描き方をする必要があるのかも多少の疑問がある。LGBT当事者の方々が、レズビアンの権力者なんてほとんどいないのに、なぜレズビアンの権力者を描いたのか……というような感想を公開当初に書いていたのが印象に残っている。これも、この作品に対する「アジア人差別」批判と同じようなものかもしれない。
ここまで『TAR/ター』について、(この記事を書いた動機のせいで)批判的なことばかり書いてしまったが、ケイト・ブランシェットの怪演などこの映画にはたくさんの魅力もある。未見で、この映画に興味を持った方がいれば、一度見ていただきたいと思う。
「描かれていない」ことは、あまりにも行き過ぎていない限り批判されないが、「描かれたこと」はどうしても批判されてしまう。『TAR/ター』という映画は、あらゆることを描こうと挑戦した野心作であるということは間違いない。