- 2026年7月11日
映画『Michael/マイケル』感想・考察|これはジャクソン5の映画である
映画『Michael/マイケル』を見た。言うまでもなく、マイケル・ジャクソンの伝記映画である。この映……

私が『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を観たのは、この映画がアカデミー賞を総なめにするより前のことだった。当時はほとんど予備知識を持っていなかったので、「カンフーに目覚めたおばさんが世界を救う、荒唐無稽だけれど面白い映画らしい」という程度の情報で観に行った。
実際に観た感想を一言でいえば、「カンフーに目覚めたおばさんが世界を救う、荒唐無稽だけれど面白い映画」、まさにそのままであった。
確かに荒唐無稽な映画である。突拍子もないギャグは盛りだくさんで、こう言っては失礼かもしれないが、B級映画のような疾走感がある。だがその一方で、深い面白さがあるのだ。この映画のメッセージ性を過大に持ち上げるのもなんとなく違う気はするけれど、単なるB級映画でないこともまた確かだと思う。
面白かった点を挙げていけばきりがないので、この記事では一つの観点に絞って紹介したい。私が取り上げたいのは、ミシェル・ヨー演じる主人公エヴリン、つまり例の「カンフーに目覚めたおばさん」が、いったい何と戦っているのか、という点である。
敵役がなぜ敵役になったのかの論理が描かれていなければ、バトル映画は少し物足りないものになる。その点でこの映画は、ラスボスである「悪の権化」がなぜ悪の権化になってしまったのかに深いテーマがあったように思う。私はそこをとても面白く観たのである。
※以下、ラスボスに触れる以上は多少のネタバレを避けられないが、核心は伏せたまま書き進めたい。
まずは簡単にこの作品について紹介しておきたい。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(以下、EEAAOと略すことがある)は、ダニエル・クワンとダニエル・シャイナートの監督コンビ、いわゆるダニエルズが手がけ、2022年にA24から公開されたSFアクション映画である。
主人公のエヴリン(ミシェル・ヨー)は、夫とともにコインランドリーを営む中国系移民の中年女性だ。店の経営は苦しく、税務調査に追われ、夫とは微妙にすれ違い、娘との関係もぎくしゃくしている。そんな冴えない日常を送る彼女が、ある日突然、無数の並行世界(マルチバース)をまたいだ戦いに巻き込まれていく。
物語の鍵となるのが「ヴァース・ジャンプ」という設定である。これは並行世界の自分とつながり、その世界の自分が持つ技能を一時的に借りてくる、という能力だ。冴えない主婦であったはずのエヴリンが、別の世界線でカンフーの達人であった自分の力を借りて戦う。これがカンフーに目覚めたおばさんの正体であり、またエブリンが特異なのは、彼女にはカンフー以外の素質も持っていたということである。この世界では冴えないコインランドリーを経営するしかなかったエヴリンだが、本当はトレーニングを受ければ世界的な歌手にもなれる素質を持っていたのだ(その意味で、この作品は潜在能力を見過ごされてきた女性に光を当てるというメッセージ性を持った作品ともいえる)。
この映画は第95回アカデミー賞で最多11ノミネートを受け、作品賞・監督賞・主演女優賞を含む7部門を受賞した。ミシェル・ヨーは、アジア系の俳優として初めて主演女優賞に輝いている。ギャグ映画としても面白いのはもちろん、純粋に映画としても高く評価されている。
ここから本題に移っていきたい。
エヴリンが戦うのは、強大な敵がいるからである。そのラスボスの名を、ジョブ・トゥパキという。
その正体は未見の方への配慮からここでは伏せるが、なぜジョブ・トゥパキが「悪の権化」と呼ぶべき存在なのか、そしてなぜジョブ・トゥパキが悪の権化になったのかという理論については、説明しておかなければならない。
先ほどヴァース・ジャンプの説明をしたが、この能力自体は作中で多くの人物が使う。ジョブ・トゥパキが特異なのは、並行世界を行き来するどころか、あらゆる宇宙のあらゆる自分を同時に生きてしまっている点にある。まさに、すべてのものを、すべての場所で、一度に経験している。原題の「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」は、彼女のこの状態をそのまま言い当てた言葉でもあるのだ。
ここで少し考えてみたい。私たちは一つの世界しか生きられない。だからこそ、私たちの人生は重い。一度きりの選択も、一度きりの出会いも、やり直しがきかないからこそ、かけがえがないのである。
ところが、いくつもの世界を同時に生きられる人間がいたとしたら、その一つひとつの人生の重さはどうなるだろうか。
それは、耐えられないほど軽いものになるだろう。
無数の世界のどこかには、別の選択をした自分がいる。どんな悲劇も、どんな喜びも、隣の宇宙では起きていなかったことになる。そのすべてが同時に在るのなら、何ひとつとして特別ではない。だからジョブ・トゥパキは、一つひとつの世界の、一つひとつの命を、どこまでも軽いものとして扱う。彼女が破壊神となり、すべてを無価値な虚無へと呑み込もうとするのは、そのためである。
(なお、観ていただければ分かるが、ジョブ・トゥパキは能力の面でもとにかく最強である)
ところで、人生の「軽さ」と「重さ」という主題で私が思い出すのは、ミラン・クンデラの名作『存在の耐えられない軽さ』である。
この作品については、以前このブログでも一度取り上げたことがあるので、作品についてはこちらを読んでほしい(そして未読の方はぜひ『存在の耐えられない軽さ』を読んでみてほしい)。
『存在の耐えられない軽さ』で、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のマルチバースに対応する概念があるとすれば、それは「永劫回帰」の概念だろう。もっとも永劫回帰はニーチェからの借用なのだが、ごく単純にいえば、まったく同じ人生が永遠に繰り返されるという思想である。この小説はその永劫回帰についての考察から幕を開ける。
永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。
(中略)
われわれの人生の一瞬一瞬が限りなく繰り返されるのであれば、われわれは十字架の上のキリストのように永遠というものにくぎ付けにされていることになる。このような想像は恐ろしい。
永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。
ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳、集英社文庫)
つまりクンデラはニーチェの「永劫回帰」について、こう考察するのである。もし人生が無限に反復されるのなら、一つひとつの行動には永遠の責任がのしかかる。つまり人生は、耐えがたいほど「重い」ものになる。だが、現実の私たちの人生は一度きりで、二度と反復されない。一度しか起こらないことは、一度も起こらなかったのとほとんど変わらない。だからこそクンデラは、反復のない人生はかえって耐えられないほど「軽い」のではないか、と問いかけるのだ。
ここで気づくのは、EEAAOとクンデラでは「軽さ」に行きつくまでの発想が正反対であるということである。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』では、無数の世界が同時に在るからこそ、一つの命が軽くなった。クンデラでは、人生が一度きりで反復されないからこそ軽くなる。「無数に在るから軽い」と「一度きりだから軽い」。出発点は真逆でありながら、どちらも「軽い人生」という同じ場所にたどり着くのである。
なお付け加えておくと、この小説における「軽さ」と「重さ」の概念は複雑で、永劫回帰ですべてが説明できるとは思っていないが、ここではあくまで一つの解釈として『存在の耐えられない軽さ』における「軽さ」を提示したい。
もっとも、私が本当に面白いと思うのは、ここから先である。
EEAAOとクンデラは「人生は軽い」という認識を共有している。だが、その「軽さ」をどう使うかが、まるで違うのだ。
ジョブ・トゥパキは、人生が軽いからこそ、すべてを破壊する。何をしても意味がないのなら、いっそ壊してしまえばいい、というわけである。
一方、クンデラの主人公トマーシュにとっての「軽さ」は、むしろ愛に向かうことがある。彼は優秀な外科医としての安定した人生を投げ出して、テレザという一人の女性のもとへ向かう。人生は重いものではなく軽いものだと捉えたとき、人はかえって、地位や安定といった「重荷」を下ろし、愛を選び取ることができる。軽さには、そういう解放の側面もあるのだ(ただし、その開放の論理は『存在の耐えられない軽さ』においてはトマーシュよりサビナにより当てはまるものなのかもしれないが)。
同じ「軽い人生」という前提から、一方は破壊へ、もう一方は愛へと向かう。この分岐こそが面白い。
そして、ここから先は読者の方に感想を委ねたいが、私はEEAAOの物語の最後、ジョブ・トゥパキもトマーシュに近い場所へとたどり着くように思うのだ。
私たちの人生は、現実には一度きりだから、やはり重い。けれど同時に、一度きりだからこその気楽さという「軽さ」もある。その重さと軽さの両方があるからこそ、人生は面白いのだと、私は思う。
ここまで書いてきたことは、この映画の一面について私が抱いた一つの感想にすぎない。たとえばこの作品はアジア系俳優にとって画期的な作品であることなど、この記事ではまったく触れられていない側面も多い。
正直なところ、この映画は高尚なメッセージを無理に読み解こうとするよりも、まずは娯楽作品として素直に楽しむべき作品だと思う。下ネタも含めてサービス精神は旺盛で、映画館で思わず声を上げて笑ってしまうほどだった。だがその勢いだけに頼らず、要所で観客をあえて落ち着かせる演出が用意されているのも見どころである。
それでもあえて全体の印象を言うなら、この映画はごく「当たり前のこと」を描きたかったのではないかと思う。家族愛であり、人生の重さと軽さである。奇抜きわまる設定を用いながら、たどり着く先はきわめて普遍的な価値だった。大胆な奇抜さと、どこか安心する平凡さ。その両方が同居しているところに、この映画のいちばんの魅力があるのだと、私は感じている。