タイトルが秀逸な小説と聞かれて真っ先に思い浮かぶのが、サマセット・モームの『月と六ペンス』という小説だ。
この小説は、パリでの実業家生活ののち画家に転身し、晩年はタヒチで暮らした画家ポール・ゴーギャンをモデルにした小説だ。今回は、この小説について個人的な偏見も交えつつではあるが、紹介していきたい。
『月と六ペンス』あらすじ
この小説の実質的な主人公は、ストリックランドという男である。
先述したように、ストリックランドという人物は、ゴーギャンをモデルにしてい(が、ものすごく脚色されているので、ストリックランドの人生が史実だと勘違いしてはいけない)。
ストリックランドは、ロンドンで働くごく平凡な株式仲買人だった。家庭も持っており、まったくもって普通の男だったが、ある時突然ロンドンからパリへ出奔してしまう。
語り手の「私」は、ストリックランド夫人から依頼され、ストリックランドを追う。女と駆け落ちしたのではないか――そう、夫人は推察したのだ。
だが、状況はまったく違っていた。
「私」は、ストリックランドを問い詰める。だが、ストリックランドはこう答える。
「おい、おれが女のためにパリくんだりまで逃げてくると思うか」
「奥様を捨てたのは、ほかの女のためではないと……?」
「当たり前だ」
「あなたの名誉にかけて?」
「ああ、おれの名誉にかけて」
「では、いったいなぜ奥様を捨てたんです」
「絵を描きたくてな」
「あなたはもう……40歳だ」
「だからさ、やるならいましかないだろうが」
ストリックランドは、家族を捨てて画家になることを目指したのだ。
パリでストリックランドは、行きたいままに生きる。ストリックランドはある時病気になるが、看病してくれたストルーブとブランチの夫婦に感謝することもなく、ストルーブの妻ブランチを寝取る(そして、すぐに捨てる)。
そして、ストリックランドはタヒチに渡り、そこで絵を描き続けて死ぬのである……
『月と六ペンス』感想
『月と六ペンス』はこんな感じの小説で、筋書きはドラマチックで結構面白い。
だが、実は私は『月と六ペンス』という小説には、ちょっと好きでないところがある。
その辺も交えながら、感想を書いていきたい。
ストリックランドの非人間性
『月と六ペンス』という作品を読んでいて、若干苛立たしいのは、実質的な主人公であるストリックランドの傍若無人な振る舞いである。
「家族を捨てて、何かの道に走る」というのは、西行の話だったら美談になるのだが、ストリックランドの話を美談にするのは難しい。ストルーブ夫人を寝取って捨てるところとか。
「でもストリックランドは素晴らしい芸術を残したから、別にいいよね」と、なるのだろうか?
架空の芸術家の作品について語るのは不毛だが、クソみたいな人格の芸術家の芸術はどのように評価されるべきか、というのは、少し考えさせられた。
しかし、人間性を排さないとできない芸術というのは、確かに存在するのだろう。
ストリックランド夫人の「人間性」
というわけで、私が『月と六ペンス』があまり好きではないのは、ストリックランドに代表される登場人物の人格に胸糞悪いところがあるからだ。
それは、ストリックランド夫人にも当てはまる。
ストリックランド夫人の性格は「胸糞悪い」というほどではないのだが、「人間の醜さ」のようなものを感じ、ちょっと気分が悪くなる。
ストリックランドが「非人間的」であるとすれば、ストリックランド夫人は「人間的」すぎるのだ。
物語は、語り手の「私」(「私」は、新進気鋭の作家として知られている)が、ストリックランド夫人にパーティー招待されるところから始まる。
ストリックランド夫人は、有名人をちやほやするのが好きなのである。
そして、それは物語の最後も同様である。ストリックランド夫人は、「天才画家」ストリックランドの妻として振舞うのだ。自分を捨てた夫。だが、その夫が死語名声を得たら、自分はその妻としての地位を最大限に生かす。
ストリックランドのような生き方もどうかと思うが、ストリックランド夫人のような生き方もいかがなものか…… この夫妻には、色々と考えさせられる。
『月と六ペンス』というタイトルの意味
おそらく、『月と六ペンス』というタイトルにも、そのような対比が込められているのだろう。(ちなみに6)
Wikipediaから引用させてもらうと、『月と六ペンス』のタイトルについては、次のような考察がなされているらしい
新潮文庫(1959年初版)での訳者中野好夫の解説によると、タイトルの「月」は夢を、「六ペンス」は現実を意味するとされる。
しかし、新潮文庫(2014年初版)での訳者金原瑞人の解説では、「「(満)月」は夜空に輝く美を、「六ペンス(玉)」は世俗の安っぽさを象徴しているのかもしれないし、「月」は狂気、「六ペンス」は日常を象徴しているのかもしれない」と述べられている。
――私も、だいたい中野氏や金原氏の意見に賛同する。
『月と六ペンス』は、「人間性」を捨てて芸術家になったストリックランドと(=月)、俗世間にとらわれた「人間的すぎる」ストリックランド夫人の物語と言えるのかもしれない。
まるくて、銀色という点は月も六ペンス銀貨も同じだ。でも、それは似て非なるものなのだ。
* * *
ちなみに、ここまで作品紹介で捨象してしまったが、この作品でもっともふつうの意味で人間的なのはストルーブである。だが、彼は、ストリックランドに翻弄され、絶望する。
私たちは、どのように生きたら幸せになることができるのだろうか。そんなことを考えさせられる。
おわりに
ここまで書いてきたように『月と六ペンス』は、(私にとっては)読んでいてイライラする作品だ。
しかし、だからこそ、人間とは何なのだろうか? と考えるにはものすごく適した小説である。
それに、ストーリー自体は結構面白い。
『月と六ペンス』というタイトルに惹かれたという方は、読んでみてほしい作品である。――そして、それが何を表しているのかを考えてみてほしい。
『月と六ペンス』を無料で読む
ちなみに、『月と六ペンス』の龍口直太郎(カポーティの『ティファニーで朝食を』とかを訳した人)の訳であれば、Kindle Unlimitedという定額読み放題サービスで読める。
ちょっと古さは否めない訳だが、読み放題で読めるという点は大きなメリットなので、このサービスも合わせてお薦めしておきたい(初月無料、記事投稿日時点)。
Kindle Unlimitedは、他にもいろいろな古典的名作を読むことができるサービスである(このサービスで読める本については本ブログのKindle Unlimitedカテゴリをご参照いただきたい)。
KindleはスマホやPCのアプリでも読むことができるので、体験したことがない方は一度試してみてはいかがだろうか。
▼本記事は光文社古典新訳文庫版(土屋昌雄訳)に基づいた
- 作者:モーム
- 発売日: 2014/08/08
- メディア: Kindle版
▼新潮文庫版(金原瑞人訳)もある
- 作者:サマセット モーム
- 発売日: 2014/03/28
- メディア: 文庫
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