遠藤周作『海と毒薬』あらすじ・感想ー世界を麻痺させる「毒薬」とは何か考察する

戦争は残酷なものであり、非人間的な行為である。戦争の悲惨なところの一つは、普通の人間でさえも、残酷な行為に手を染めてしまうことだ。

そのようなことをテーマにした作品に、遠藤周作の『海と毒薬』という作品がある。

米軍兵への生体解剖という「人体実験」の実話をもとにした作品である。作品自体はフィクションだが、どのようにして人々が非道徳的な生体解剖へと向かっていったのかという問題について考えるきっかけとなる作品であり、夏に読んでほしい作品の一つだ。

海と毒薬(新潮文庫)

作品概要

作品名:「海と毒薬」

作者:遠藤周作

発表年:1957年

この作品は第二次世界大戦中の日本で起きた「九州大学 生体解剖事件」(九州帝国大学で軍医らが、米軍捕虜の解剖実験が行われた事件)をモチーフにしているが、モチーフとしているだけであって創作性が強い(金閣寺炎上事件と三島由紀夫の「金閣寺」の関係性と同じようなものである)。

作者・遠藤周作は日本を代表する作家であり、キリスト教徒としても知られている。

ちなみに、現在(2020年2月)のフジテレビの遠藤社長(遠藤龍之介氏)は、周作の息子である。

 

 

あらすじ

まずはこの作品のあらすじについて、実質の主人公である「勝呂」にフィーチャーしながら紹介していきたい。

第一章 海と毒薬

プロローグ

物語は「私」が、東京・新宿のベッドタウンに引っ越してきたところで物語は始まる。「私」は肺気胸を患っており、胸の側面に針を刺す治療を定期的に受ける必要があるのである。

 

そこで、「勝呂」という、九州のF市訛りの言葉を発する医師に出会う。

彼は腕は確かだが、どこか不気味な「冷たさ」を持っていた。

私を一人の患者ではなく、なにか実験の物体でも取り扱っているような正確さ、非情さがあった。(前の医者の指先と違う)と私は患者の本能で突然怯えはじめた。

折しも義妹の結婚式がF市であり、主人公はその市の医大を卒業したという新夫の従兄に、勝呂医師を知っているかと聞いてみると、彼は勝呂に対してこのようなことを口にする。

「いや、あの人は……御存知か知れませんが、例の事件でな」

この事件こそが、米軍捕虜の生体解剖事件である。

東京に帰った「私」は、勝呂に対して、秘密を知ってしまったことを仄めかす。

すると、息苦しい沈黙の末、勝呂はつぶやくのである。

「仕方がないからねえ。あの時だってどうにも仕方がなかったのだが、これからだって自信がない。これからもおなじような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまうかもしれない……アレをねえ」

Ⅰ~Ⅴ

ここから、物語は勝呂の戦時中の回想へと入っていく。

主な登場人物
勝呂…F市の大学病院の研究生

戸田…勝呂と同じ研究生

橋本教授…勝呂・戸田の「おやじ」。妻はドイツ人女性・ヒルダ。前医学部長の大杉が急逝したのち、医学部長の座を権藤教授と争っている。

柴田助教授…助かる見込みのない患者である「おばはん」を実験台にしようとする。

浅井助手…橋本教授に取り入って権力を固めようとしている。看護婦の上田と男女関係がある。

上田看護婦…看護婦長の大場と共に実験に参加。「聖女」としてふるまうヒルダに対して反発心を持っている。

勝呂と戸田のついている橋本教授は、次期医学部長の座を狙って権力争いをしている

そこで橋本教授は、大杉医学部長の親類である患者の「田部夫人」の手術を予定よりも早めることにより、医学部長の選挙までに大杉門下を取り込もうと画策する。

ところが、難しくもなんともないと思われたこの手術は、老いた橋本の技術の低下もあって失敗し、田部夫人は手術中に死んでしまう。呆然とする橋本に対し、浅井助手は冷静に対処し、田部夫人が手術後に死亡したように見せかける隠蔽工作を粛々と行う。

 

そうはいっても、橋本の勢力の後退は免れなかった。そこに西部軍の医官から、米軍捕虜の生体実験の話を持ち掛けられ、勢力挽回のため彼らと手を握ることになる。

 

折しも、勝呂が特別気にかけていた患者である「おばはん」が、病死する。彼女は助かる見込みのない患者として柴田助教授により実験台にされそうになっていたが、結局手術によって殺される前に病死してしまったのである。

自分はなぜあのおばはんだけに長い間、執着したのだろうと勝呂は考えた。彼は今、それが初めてわかったような気がする。あれは戸田の言うようにみんなが死んでいく世の中で、俺がたった一つ死なすまいとしたものなのだ。

俺の初めての患者。雨にぬれて木の箱につめられて運ばれていく。勝呂はもう今日から戦争も日本も、自分も、凡てがなるようになるがいい、と思った。

彼女の存在こそが、勝呂にとって「心の支え」であり「神」であったのである。

 

そのような中、勝呂も参加を持ち掛けられる。勝呂は断ることもできたのにもかかわらず、実験への参加を断ることなく手術の日を迎えるのである…

第二章 裁かれる人々

Ⅰ~Ⅲ

この章の第一節と第二節は、実験に参加した上田看護婦、戸田がどのようにして実験に参加したのかが描かれている。この部分は物語の構造上は重要であるが、今回は割愛する。追々別の記事を書きたい。

各人はそれぞれの思いを胸に抱きながら、いよいよ実験に参加していくことになる。

第三章 夜の明けるまで

Ⅰ~Ⅲ

勝呂は実験に参加するが、何もできない。自分からメスをとることもできなければ、手術を力ずくでやめさせることもできない。

一人の若い将校が、ふいにこちらをむいて、手術着を着たまま自分たちの背後にたっている勝呂を怪訝そうに眺めた。その眼は急に勝呂を詰問するような憤怒の色に変わった。

(怖しいのだな、貴様)とその眼は言っていた。(それで貴様、日本の青年と言えるか)

その視線を額に痛いほど受けながら、勝呂はここにいる全員にとって自分が役にもたたぬ一医員としかうつらぬこと、手術の不参加を助教授に断れなかった無気力な男だったことに気がついた。

 勝呂は、これからどうすればいいのかがわからなくなる。

明日からふたたびあの研究生としての生活がはじまる。おやじも柴田さんも戸田も皆、もとのように回診をしたり、外来患者を診たりするのだろうか。それができるのだろうか。あの栗色の髪の毛をした善良そうな捕虜の顔は彼等の頭からすっかり消えてしまうのだろうか。

だが俺にはできん。俺には忘れられん。

勝呂にはわからない。ラストの場面、勝呂は戸田から昔教わった立原道造の詩を呟こうとする。しかし、それができない。

勝呂にはできなかった。できなかった……

これが物語のエンディングである(なお、時系列的には、プロローグの勝呂が最も後である)。

『海と毒薬』考察

勝呂の「神」としての「おばはん」

この作品の作者である遠藤周作は、クリスチャンである。

この作品に通底するテーマは、「神を信仰しない日本人は、自分のことを押し流すような運命に抗うことができないのではないか?」ということにあるといわれている。

 

運命に抗うには、なにか自分の基軸となるものが必要なのである。

勝呂の場合、「おばはん」に対する謎の執念こそが、「死が当たり前の世界」に抗う唯一のものだったのである。しかし、「おばはん」の死によって勝呂は自棄のようになり、「実験への参加」という運命に押し流されることになる。

遠藤周作が勝呂を描くことによって伝えようとしているのは、おそらくこのような「押し流されてしまう人々」の怖さなのである。

ハンナ・アーレントの「凡庸な悪」

「押し流されてしまう人々」という話で思い出すのは、ハンナ・アーレントの「凡庸な悪」である。

 

 「アイヒマン裁判」をご存知だろうか。アイヒマン(アドルフ・アイヒマン)とは、ナチス・ドイツの親衛隊(SS)の中佐で、戦時中に数百万物ユダヤ人をアウシュヴィッツなどの強制収容所に移送することを指揮した人物である。

終戦後彼は逃亡し、大犯罪者としてイスラエルの諜報特務機関・モサドにその身を追われることになった。1960年に彼は身柄を拘束され、裁判にかけられることになった。

世界は彼を「超極悪人」であると考えていた。何しろ、何百万ものユダヤ人を死に追いやる決定権を握っていた人物だからである。しかし、実際の彼はあまりに普通の、ちっぽけな役人気質の人物だったのである。

 

このアイヒマンのギャップに対し、裁判を見たアーレントは「悪の陳腐さ」「悪の凡庸さ」という言葉を用いた。

罪人が非道であったのではない。ちょっとした小心さゆえに、運命に流されて人々は「悪」を犯してしまうのである。

生体解剖に参加したという「罪」を犯してしまった勝呂こそが、まさにアーレントの言おうとした「凡庸な悪」なのではないか、と私は思う。

 

なお、「海と毒薬」の発表年は1957年で、「エルサレムのアイヒマン」は1963年に書かれたものであり、遠藤周作はある種アーレントより先にこのような「悪」の性質を見抜いていたといえるだろう。

勝呂を通じて描かれるもの

とはいっても勝呂とアイヒマンとを同列に語るのは、勝呂に対して酷かもしれない。

そうというのも、勝呂は実験に参加するや否や、後悔の感情を起こしているからである。あくまで指示に従い官僚的に殺戮行為に関与し続け、そのことに罪はないと考えていたアイヒマンとは異なる。

 

先ほどと同じ箇所を引用しよう。

明日からふたたびあの研究生としての生活がはじまる。おやじも柴田さんも戸田も皆、もとのように回診をしたり、外来患者を診たりするのだろうか。それができるのだろうか。あの栗色の髪の毛をした善良そうな捕虜の顔は彼等の頭からすっかり消えてしまうのだろうか。

勝呂は、罪を犯した人間が罪を犯す前と同じでいられるのだろうか、と疑問に思う。

しかし、罪を犯しても人々は結局変わらずに生きていくのである。

 

プロローグでガソリンスタンドのマスターが「私」に語る言葉が印象的である。

「……もっとも俺だけじゃないがなあ。シナに行った連中は大てい一人や二人は殺ってるよ。俺んとこの近くの洋服屋―知っているだろう、あそこも南京で大分、あばれたらしいぜ。奴は憲兵だったからな」

このような描写は、「殺人者」も普通に生きていた戦後社会の異常さを書き表していると思う。もちろん勝呂も、「殺人者」としての過去を隠しながら市民社会を普通に生きる人々の最たる例である。

しかし、勝呂は人として根本的に変わったわけではない。戦後に、勝呂は以下のように回想する。

これからもおなじような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまうかもしれない……アレをねえ

勝呂に潜んでいる「凡庸な悪」は、戦中も戦後も変わらない性質として残っているのである。

それこそが、おそらく作者遠藤周作が指摘したかった「神の不在」なのであろう。

 

 

「毒薬」とは何か

ところで、この作品のタイトルの「海と毒薬」は、本文中に明示的なモチーフがあるわけではない。タイトル中の「毒薬」とは何なのであろうか。

Wikipediaには次のように書いてある。

遠藤が九州大学病院の建物に見舞い客を装って潜り込んだ際、屋上で手すりにもたれて雨にけぶる町と海とを見つめ、「海と毒薬」という題がうかんだという。 評論家の山本健吉は、「運命とは黒い海であり、自分を破片のように押し流すもの。そして人間の意志や良心を麻痺させてしまうような状況を毒薬と名づけたのだろう」としている。

 ここに書かれている山本氏の解釈は、私の解釈とも一致する。

「普通の人」を侵し、「凡庸な悪」に染めてしまうようなものこそが「毒薬」なのではないかと私は思う。

プロローグで書かれる「街中に潜む殺人者」は、普通の人が人を殺している戦争の狂気をよく表している。作品中に描かれる勝呂は、自らの確固たる信念なしに運命に流されてしまう人物である。彼ら「普通の人物」を悪に染めてしまった戦時中の環境・雰囲気こそが「毒薬」なのである。

つまり「毒薬」とは同調圧力なのではないか。

 

「神」がいれば彼らは悪に染まることはなかったのか、というのが遠藤周作の問いだとしたら、その答えは私にはわからない。 しかし、周囲の空気に流されない信念が必要とされているというのは、今も昔も変わらない。

ところでこの書評を書いたのは、『僕のヒーローアカデミア』(『ヒロアカ』)が最近(2020年2月)炎上し、週刊少年ジャンプ編集部が謝罪文を出すまでになったことでこの作品を思い出したからである。

説明すると、この問題は作品中に登場する「悪の組織の医師」に「志賀丸太」という名前が付けられたことに端を発する。「丸太」という単語は、戦前の日本の731部隊で人体実験の被験者を指す隠語として用いられていたとされる言葉だからであり、生体実験の被験者を想起させる言葉であったからだ。

私たちは、かつて戦争という「毒薬」のせいで人体実験の被害者となった方がいることを、忘れてはいけない。

そのようなことを胸に刻みながら、『海と毒薬』を読んでいただければ幸いである。

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