現代作家で誰の文章が好きかと聞かれたら、森見登美彦と答える。
森見登美彦の文体はやや古風なところがあり、面白いし独特なリズム感が大好きな作家である。そんな森見登美彦の文体に大きな影響を与えたのは、内田百閒だという(出典:作家の読書道:第65回 森見 登美彦さん)。
というわけで、内田百閒の随筆である『百鬼園随筆』を読んでみたので、感想を記したい。
『百鬼園随筆』は芥川龍之介ファンも持つべき
本論からいきなりそれるが、最初に『百鬼園随筆』(新潮文庫)の魅力を述べれば、このエキセントリックな表紙である。
この、鼻毛からもう一人の内田百閒が召喚されているような謎の絵は、芥川龍之介によるものである。
「百閒先生邂逅百閒先生図」というらしい。
私は本を買ったり借りたりと大体半々であるが、この『百鬼園随筆』は買って所有している。
その理由の一つは、この「百閒先生邂逅百閒先生図」にある。
芥川による表紙と知ると、私はこの本に俄然愛着が湧いた。
『百鬼園随筆』の魅力
ここからは本題に入ろう。
『百鬼園随筆』の魅力は、なんといっても内田百閒の文体である。天性のユーモアのセンスを遺憾なく文章に発揮できる人の代表例のような存在こそが、内田百閒なのである。
百閒の随筆のテーマは、貧乏・飛行機・勉強嫌い・小鳥・宮城道雄らとの交流などである。
しかし、どれをとっても、どこかくすっと笑える部分があるのである。
以下、私が個人的に選んだ「名言集」を『百鬼園随筆』『続百鬼園随筆』から少し紹介しようと思う。
内田百閒名言集
「風呂敷包」
読書と云う事を、大変立派なように考えていたけれど、一字ずつ字を拾って、行を追って、頁をめくっていくのは、他人のおしゃべりを、自分の目で聞いている様なもので、うるさい。めはそんなものを見るための物ではなさそうな気がする。
独逸語の教師をしていたので、辞書の類は大分持っていたけれども、それを売ったら、何だかその語学にも興味がなくなってしまった。
おいおいそれでいいのか、というゆるさである。百閒は陸軍士官学校や法政大学(百閒はよく鳳生大学と書く)のドイツ語教師なのだが、本当に教師をつとめられたのか疑問に思わせてしまうエピソードは事欠かない。
阿呆の鳥飼
私は小さい時分から小鳥が好きで、色色な鳥を飼ったり、殺したりしました。
「殺す」というのは「死なす」という意味だが、なんだか百閒が書くと面白い気がしたのは私だけだろうか……
無恒債者無恒心
月の半ばを過ぎると、段々不愉快になる。下旬に入れば、憂鬱それ自身である。
月給を貰う者の迷惑なぞ、当事者には解らぬのだから、止むを得ない。
学校が月給と云うものを出さなかったら、どんなに愉快に育英のことに従事することができるだろう。
そして、お金のいる時は、一切これを借金によって弁ずるとしたら、こんな愉快な生活はないのである。
一部だけ抜き出したが、個人的には、このエッセイが一番面白いと思う。
給料日が憂鬱だなんていうエッセイは、他を探してもなかなかないだろう。
地獄の門
この話から抜き出しはないが、シリアスで感じさせるものがあるのでタイトルだけ紹介した。
高利貸しの周辺の死に関する随筆で、百閒の随筆の真骨頂だなあと思う。
間抜けの実在に関する文献
抑もどちらが間抜けなんだか、或いはどちらに間抜けの実在性がより多く託されているか解ったものではない。
百鬼園師弟録
私が話していたのは、コレラのお葬いの途中、焼場の山にかかる前に、綱が切れて、棺桶が割れた拍子に、仏が尻餅を搗いて生き返り、白い着物を著たまま歩き出したと云う常識涵養上の好適例であった。
(原文のコレラは漢字)
これは『続百鬼園随筆』所収。学校の授業で、百閒は死体が歩き始めたという話をしている。ほんとうにドイツ語教師か…?
こちらのエッセイが所収されている新潮文庫『続百鬼園随筆』の表紙も、同じく芥川龍之介による「百鬼園先生懼菊花図」(意味不明)。
読む順序としては、『百鬼園随筆』を先に読んで、気に入ったら『続百鬼園随筆』を読むという形がおすすめ。
おわりに
内田百閒の魅力を伝えたかもわからず、森見登美彦への影響という点でも考察ができなかったが、とにかく百閒にはユーモアがあるということは間違いない。
そして、そのユーモアは森見登美彦という存在を通じて、現代にも生きているのである。
▼最近出た本としては、これも興味深い。