『地下鉄のザジ』というと映画が有名だが、原作はレイモン・クノーによる小説である。
以前から興味はあったが、ついこの間の2021年9月に『地下鉄のザジ』がの新版が中公文庫から出たことを知ったので、読んでみた。新版でも訳は以前と変わらず生田耕作のものだが、植草甚一の映画評と千野帽子の新版解説がつけられており、たぶん活字が大きく見やすくなっている。
読んでみたところ『地下鉄のザジ』は、期待にたがわず印象に残る小説だったので、感想を記そうと思う。
『地下鉄のザジ』あらすじ解説
『地下鉄のザジ』は、主人公の少女・ザジが、パリの伯父のガブリエルのもとに預けられる二日間のドタバタを描いた小説である。
なぜザジがガブリエルのもとに預けられるのかというと、彼女の母親ジャンヌ・ラロシェールはパリで情夫に会っているからである。ちなみに彼女の父親は、ザジによれば母親によって斧で頭をかち割られて死んだらしいとのこと。真偽は不明だが、いずれにせよザジに父親はいないようである。
こうしてザジは、オーステルリッツ(アウステルリッツ)駅で、ガブリエルに引き渡される。
ザジは初めてのパリで、地下鉄に乗りたがるが、あいにくストライキで地下鉄に乗ることができない。
「ああ、チクショウ!」ザジは叫ぶ。「ああ、いじわる。バカにしてるわ」
ザジは、ガブリエルの友人であるシャルルのタクシーで、ガブリエルのアパートの一階の喫茶店に行く。
このカフェで、ザジはガブリエルの妻と見られているマルセリーヌや、大家のテュランド―、オウムの《緑》などに出会う。
ザジは、さんざん大人を振り回す。
「あたし」ザジは宣言する。「六十五まで学校へ行くつもりよ」
「六十五まで?」いささか驚いてガブリエルは繰り返す。
「そうよ」とザジ。「あたし小学校の先生になりたいの」
「悪い商売じゃないわ」マルセリーヌがおしとやかに言う。「恩給がつくものね」
彼女はそれを機械的につけ加えたのだ。国語に堪能だったから。
「恩給けつ喰らえ」ザジはやり返す。「あたしはね、先生になりたいのは恩給のためなんかじゃなくってよ」
「そうだとも」とガブリエル。「そいつはわかるよ」
(中略)
「さあ? どうしてなりたいんかね、学校の先生に」
「いじめてやれるからよ」ザジは答える。「十年さきに、二十年さきに、五十年さきに、百年さきに、千年さきにあたしの年になる女の子を。いつの時代だってシゴキ甲斐のあるガキは後を絶たないもの」
「なるほど」
「女の子にめちゃくちゃ意地悪してやるの。床をなめさせてやるわ。黒板拭きを食べさせてやるの。……(後略)……」
ザジは大人たちに諭されると、次のように答える。
「じゃ」と彼女は宣言する。「あたし宇宙飛行士になるわ」
「なるほど」ガブリエルは賛成する。「なるほど、時代にあわさなくちゃ」
「そうよ」ザジは続ける。「あたし宇宙飛行士になって火星人をいじめにいくんだ」
ザジは「けつ喰らえ」という下品な俗語を多用し、大人たちに反抗する。
そして「いじめること」が好きだと自分で宣言するように、ザジは大人たちを振り回す。
たとえば、ザジはガブリエルが「おかま」同性愛者なのではないかとしつこく聞きまわす。ガブリエルはゲイバーのようなもので女装して踊るダンサーとして収入を得ていたが、自分は同性愛者ではないと主張する。自分はなにしろ結婚しているではないか、と。
翌朝、ザジは地下鉄に行こうとして、アパートを抜け出す。テュランド―が気づいて捕まえるは、彼女はテュランド―を痴漢呼ばわりして通行人を味方につけ、逃げおおせる。
ザジは地下鉄に入ることができず泣いていたところ、男(ザジは彼を「変態」だと決めつける)に連れ戻される。
ガブリエルはエッフェル塔にザジを連れていくが、ここで観光客の集団にまき込まれる羽目になり、物語はさらにドタバタとしていき……。
『地下鉄のザジ』感想
『地下鉄のザジ』は以上のような小説である。
おてんば娘のザジは、現実世界では絶対に出会いたくない少女が、小説の主人公・登場人物としては魅力にあふれており、ザジの言動には笑ってしまうこともある。
一方で、『地下鉄のザジ』の物語後半は、意外とザジが登場しないシーンも多い。
だが基本的に『地下鉄のザジ』の登場人物やストーリーは、ザジと同様に「価値観を揺るがす」ものではないかと思う。
ザジの「けつ喰らえ」
先ほども紹介したように、ザジは「けつ喰らえ」という汚い言葉をよく使う。
「けつ喰らえ」というのは原書のフランス語では「Mon Cul」というらしく、英語だと「My Ass」、要するに「私の肛門」という意味らしい。つまり英語の「Fuck my ass」みたいな意味だろうか。
「くそったれ」「クソくらえ」みたいなものだろう。他の訳では「おケツブー」と訳されているものもあるらしい。いずれにせよ、普通であれば女児が使う言葉ではない。
しかし、大人相手に「けつ喰らえ」とやり返すザジは、小説の登場人物としては痛快である。この人物造形が、本書が大ブームを引き起こした一番の理由だろう。
だがザジも、むやみに「けつ喰らえ」を発しているわけではない。
先ほどあらすじ紹介で紹介したのは
「恩給けつ喰らえ」
だったが、ザジは「恩給」だとか「ナポレオン」だとか「義務」だとか「大人」のような、「なんだか権威がありそうなもの」に対して「けつ喰らえ」を発動するのである。
このようにザジは「権威」に反発するのであるが、先ほども書いたように、この作品自体が「常識」のようなものに反発した作品なのではないかと思う。
「正体不明」の登場人物
先ほどのあらすじ紹介で、アパートを抜け出したザジは「変態」によって連れ戻されると書いたが、実はこの「変態」は、物語後半で何度も出てくる重要な人物となる。
しかし彼は、何度も自身のアイデンティティーを変えるのである。彼は物語途中では警官の格好で登場するなどし、物語をさらに混沌の渦へと叩き込む。
『地下鉄のザジ』では、登場人物はほとんど全員、「正体不明」なのである。
この作品が1959年、つまり第二次世界大戦が終わってわずか14年後に書かれた作品だから、登場人物の身分自体が不安定であるというのはあるだろう。
しかし、それをおいても、登場人物の「正体」が不明なことが多すぎるし、また読者は意外な展開に裏切られることもある。
ガブリエルが同性愛者なのか、という問題は、この作品における一つのテーマである。
(現代では問題があると思うが、半世紀以上前の作品ということもあり、この記事でも『地下鉄のザジ』に即してこのテーマを取り上げることをお許しいただきたい。)
ガブリエルは、自分が同性愛者ではないと強く主張する。
「おしとやか」なマルセリーヌと同棲していることが、その理由である。
なるほど、ガブリエルは仕事で女装はしているが、ゲイではないのだろう。ーー束社はそう思う。
しかし、『地下鉄のザジ』の結末で、読者は「やはりガブリエルは同性愛者なのではないか?」という疑惑を持ってこの本を読み終えることになる。
結局のところ読者はガブリエルの疑惑について、振り回されるだけ振り回されて終わるのだ。ザジに振り回される大人たちのように。
おわりに
このように『地下鉄のザジ』は、読者の信じていたことや価値観を揺るがせるだけ揺るがせて終わる。
私が思うに、『地下鉄のザジ』は、「小説」というものの「権威」も打ち破ろうとした小説なのではないだろうか。
いや、『地下鉄のザジ』は、俗語を多用しているくせに絶妙に技巧的で文学的な表現も用いられており、文学的にも非常に価値があると思う。演劇台本のような仕掛けも特徴的だと思った。
しかしこの作品は、「お堅そうな小説」では決してない。読んでよかったとは思うのだが、読んで得られるものがあるかというと答えに窮する。
以下は、物語ラストの、ザジと、母ジャンヌ・ラロシェールの会話である。
「で楽しかった?」
「まあまあね」
「地下鉄は見たの?」
「うゥうん」
「じゃ、何をしたの?」
「年を取ったわ」
たぶん、『地下鉄のザジ』を読んだ読者は、同じ感想を抱く。
『地下鉄のザジ』という小説を読んで楽しかったかーー「まあまあね」(注:これはザジ流の最大限の賛辞である)。
地下鉄は(物語中で)見れたか?ーー「見れなかった」。
じゃあ、この作品を読んでどうだったか?ーー「年を取った」。ただそれだけなのだ。
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