『チェンソーマン』第2部が完結した。そして、日本の漫画史上に残る『チェンソーマン』という作品自体も幕を閉じた。
『チェンソーマン』は漫画史上に残る作品だと書いた。しかし、それには複数の意味がある。この作品の第1部は、少年漫画の傑作として永く記憶されるだろう。しかし、この作品の第2部は、単体で見れば傑作と評価するのは難しいかもしれない。一般的に、『チェンソーマン』という作品は第2部に入り“失速”していると評価されてきた。
私自身は、これまで第2部が失速したのかどうか評価することは避けてきた。『チェンソーマン』という作品は、読者を裏切る展開が魅力である。もちろん読者をいい意味で裏切ることもあれば、悪い意味での裏切りをしてしまうこともあるのだが、それが大きな特徴である。『チェンソーマン』の特に第1部は、漫画というメディアの可能性を探った作品だったと思う。文字のみで描写をする小説にはすることのできない表現で、たびたび読者の期待を裏切ってきた(そのような内容の考察を以前このブログで書いたこともある)。
そうであるから、『チェンソーマン』第2部は最終話で全てを裏切る可能性も考え、評価を留保してきた。だが第2部が完結し、そして『チェンソーマン』という作品も完結したということで、第2部の最終回を中心に率直な感想を書いていきたい。
簡潔に言えば、『チェンソーマン』第2部は綺麗に終わったと評価できると思う。しかし、読者の期待は裏切られている。では、この読者の裏切りで、作者は何を描きたかったのか。この記事ではそれを考察していきたい。
※なお、記事には考察の都合上、一部最終話のネタバレを含む。
『チェンソーマン』第2部とはどのような作品だったか
はじめに『チェンソーマン』の、第2部はどのような作品だったのかを簡単に振り返りたい。
『チェンソーマン』第2部は“失速した”のか
『チェンソーマン』の第1部の主人公はデンジで、正ヒロイン(といっていいのか分からないが)はマキマであった。マキマはラスボスでもある。サブヒロインとしてパワーがいた。しかし、どちらのヒロインとも結ばれることはない。
一方、『チェンソーマン』の第2部の主人公は三鷹アサ。彼女が戦争の悪魔(ヨル)に身体を乗っ取られ、1つの身体の中にアサとヨルが同居することになる。
第2部にもデンジは登場する。ここで途中から、アサはヒロインとなっていく。こうして『チェンソーマン』の第1部と第2部は(もちろん元から同じ世界を描いていることは明らかなのだが)接続していくことになる。
なお、『チェンソーマン』第2部を振り返ると、第2部にはなかった面白さは確かにあった。それは学園モノとしての魅力や、同一の身体を持つアサとヨルというキャラクターである。しかし、全体を通して見れば、第2部は第1部に比べて“失速”したという評価が多かったと思う。なぜ失速したと評価されたのかと考えると、それは『チェンソーマン』第2部が、あくまで第1部と接続した作品だからである。
つまり、『チェンソーマン』第1部終了時に期待されたことが、第2部で十分に描かれなかったのだ。
『チェンソーマン』第1部で期待された要素
『チェンソーマン』第2部で読者の多くが残念に思ったのは、チェンソーマン第2部で核となると予想されていた要素が、未回収となったことである。
『チェンソーマン』第2部は、第1部から最も大きい要素としては次の2つのテーマを受け継ぐはずであった。それは、第1部のヒロインであった2人と関係している。
①ナユタ(支配の悪魔)と家族になること
②パワー(血の魔人/悪魔)を探すこと
だが、この2つの要素は、『チェンソーマン』の第2部の本編ではほとんど回収されなかった。①に関しては、途中でナユタが死亡してしまったくらいである。私は最後までナユタが復活するのではないかと考えていたが、結局私が期待した形では復活しなかった。

『チェンソーマン』第2部最終話での伏線回収
しかし物語の構造として、『チェンソーマン』第2部が、①ナユタ(支配の悪魔)と家族になること、そして②パワー(血の魔人/悪魔)を探すこと、を全く無視して終わることはできないことは作者の藤本タツキも、もちろん理解していた。
完全にネタバレになってしまうが、『チェンソーマン』第2部では、「あるものの名前がついた悪魔を食べると、あるものを消滅させることができる」能力を持つポチタ(チェンソーマン)が、自分で自分を食べる。こうして、ポチタ(チェンソーマン)が「なかったこと」になる。
チェンソーマンが「なかったこと」になり、チェンソーマンの信者であったマキマも存在しなくなっている。(=こうして、「支配の悪魔」とデンジが家族同然になる可能性が生まれる)
また、デンジの人生はポチタと契約を交わす直前の段階に戻り、ポチタではなく代わりに同時代を生きていたパワーがデンジの命を助けることになる。
こうして、『チェンソーマン』第2部で回収されるべき要素は綺麗に回収された。

『チェンソーマン』における信仰と幻滅
だが、このエンディングは一種の夢オチであり、少年漫画史上に残る傑作であった『チェンソーマン』第1部のストーリーも事実上「なかったこと」にするものである。これは読者の期待を裏切るエンディングであるといえる。
では、なぜこのような形で作者・藤本タツキは読者を裏切ったのか。
デンジにとって幸福とは何か
最終話の1つ前の話である第231話で、ポチタは自分で自分を食べることを宣言する。
それは、デンジが幸せになることができなかったからである。デンジは学校に行っても、そしてアサと結ばれそうになっても、結局心のどこかで虚しさを感じていたのだ。
「残念ながらデンジも気づいてたハズ
デンジは飢えて 苦しんで 悪魔と戦って
ボロ小屋で腐ったパンを食べてるほうがずっと幸せだった」
だからポチタは、自分を「なかったこと」にしたら、デンジは「夢を見続けられるかもしれない」と考え、自分で自分を食べることにする。(※なぜポチタがいなかったらデンジが「夢を見続けられる」かもしれないのかは、個人的にはあまり納得できていない)
デンジの幸せとは何か
『チェンソーマン』という作品は1部でも2部でも、基本的にデンジが何かを掴もうとしている時が一番面白い作品である。
第1部でデンジがキス(ベロチュウ)をしてほしいと願い、胸を揉みたいと願う。だが、それを得るまではそれに憧れているのに、いざそれを体験すると幻滅してしまう。
初体験、童貞喪失の幻滅は古今東西しばしばテーマになっているが、まさに『チェンソーマン』は初体験の幻滅をテーマにした作品だった。それは、デンジとアサが結ばれた瞬間が物語のクライマックスだったことも象徴的だ。
第231話が更新されて、ジャンプラには以下のようなコメントがあった。そしてこのコメントは、最終話が更新された現在も「いいね」の数で第1位となっている。
これデンジじゃなくてタツキ先生のことではチェンソーマンのおかげで欲しいものは全部手に入った
でも幸せを感じてたのは漫画家として大成する前の頃だった
だからもうチェンソーマンとはお別れ
チェンソーマン自身がタツキ先生を縛り続けていることにキャラとして語りかけてきたのかな
この感想に乗っかってしまうようだが、『チェンソーマン』がこのような結末を迎えた理由の一つは、作者藤本タツキの幻滅があるのではないかと思う。
全くマンガとは関係ない個人的な話なので読み飛ばしてほしいが、私の好きなミュージシャンにジャーヴィス・コッカーという人物がいる。彼はポップスターというものになりたかった。そして長い下積み時代を経てスターになったが、スターになればできると思っていたことができるようになるどころか、有名になったことで不便ばかり被るようになり幻滅し、鬱になってしまうのだ。
藤本タツキ本人がどのような思いを持っているかはわからないが、デンジの幻滅と作者の幻滅はリンクしているのではないかという考察は一つあるだろう。
藤本タツキ作品における信仰と幻滅
だが私は、『チェンソーマン』がこのような形で終わることになった理由としては、全く別の意図もあるのではないのではないかと思うのである。
それは、藤本タツキは自身の境遇に幻滅しているわけでは必ずしもないが、期待される「藤本タツキ像」や『チェンソーマン第2部』を裏切りたかったのではないかということである。
藤本タツキという漫画家は、初の連載は『ファイアパンチ』であり、その次作が『チェンソーマン』だった。
ファイアパンチのあらすじをここで紹介するのは時間がかかりすぎるので割愛するが、ファイアパンチの最終巻には次のようなセリフがある。
アグニ様はなあ…! そんな酷え事しねえんだよお!!
『ファイアパンチ』第8巻(Kindle版)93枚目
『チェンソーマン』の読者であれば、マキマの次のようなセリフを思い出すだろう。
チェンソーマンはね、服なんて着ないし、言葉を喋らないし、やる事全部がめちゃくちゃでなきゃいけないの
つまり『ファイアパンチ』と『チェンソーマン』という2つの漫画には、勝手な思い込みで信仰し、自分の思った通りでないと勝手に幻滅するという人物が共通して登場するのだ。
藤本タツキの作家性の一つに、このような「信仰と幻滅」、そしてその信仰と幻滅に起因する争いをテーマにするというものがあるといえるだろう。
では、それを現実世界に落とし込むと、どうなるのだろうか。
藤本タツキはなあ…! そんなマンガは書かねえんだよお!!
『チェンソーマン』第2部を読んで、そう言っている読者はいないだろうか。実際のところ、このようなことを言っている読者は確かに存在するだろう。
だがもちろん、藤本タツキは藤本タツキの書きたいものを書くし、信者がどんなに頑張って否定しようが、それは変わることがないものなのだ。というよりも、“信者”が信仰の対象のあるべき姿を規定するのはおかしいのだ。
つまり『チェンソーマン第2部』は、読者という“信者”が、チェンソーマンという作品を「第1部の正統な続編であるべきだ」というように信仰し、しかしそれを裏切られ、幻滅するという、「信仰と幻滅」を現実世界に作り出した装置であったと言えるのではないかということである。
おわりに
藤本タツキは、『チェンソーマン』第2部で、読者の期待するものを描かなかった。読者は藤本タツキを信仰し、そして幻滅した。それはしばしば”失速”というように評価されてきた部分でもある。
だがそれは、藤本タツキによる「信仰と幻滅」の実験だったのかもしれない。
もちろん真相は作者にしか分からない。しかし、もし私のこの説が全くもって違ったとしても、それもそれで私が「信仰と幻滅」の構造に囚われることになる。作者の意図はどうであれ、『チェンソーマン』第2部は、藤本タツキが『ファイアパンチ』や『チェンソーマン』で描いてきた「信仰と幻滅」という構造を作り出したのだ。
しかし、ここまで何度も「幻滅」と書いてしまったが、より正確には記事の冒頭でも書いたように「期待の裏切り」と書いた方が良かったかもしれない。一部の「『チェンソーマン第2部』はこうあるべきた」と決めつけていた読者にとって『チェンソーマン第2部』は“幻滅”だったかもしれない。しかし、『チェンソーマン第2部』は正統派の少年マンガとは言い難いが、読者の期待をいい意味でも裏切るマンガであり、間違いなく名作だと思う。未読の方は、ぜひ全巻通読してみてほしい。

