エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスを、観た。
私がこの映画を観たのは、この作品がアカデミー賞を総なめにする前で、あまり下知識を持っていなかった。とりあえず「カンフーに目覚めたおばさんが世界を救う荒唐無稽な映画、だけど面白い」らしいという程度の情報だけ持って、映画館に行った。
実際に観た感想はというと、「カンフーに目覚めたおばさんが世界を救う荒唐無稽な映画、だけど面白い」というそのままであった。
確かに荒唐無稽な映画である。突拍子もないギャグは盛りだくさんだし、(こういうと失礼かもしれないが)「B級映画」のような疾走感がある。
しかし、深い面白さがあるのだ。もっとも、この映画のメッセージ性を過大評価するのもなんとなく違うような気はするのだが、この映画が単なる「B級映画」でないのは確かである。
面白かったところはたくさんあり、書いていくときりがないので、この記事では一つの観点からこの映画を紹介していきたい。
ここで私が取り上げたいのは、ミシェール・ヨー演じる主人公・エブリン(前述のカンフーに目覚めたおばさん)が「何と対決するのか」というところである。単に世界征服を目論む敵と戦うだけでは作品として面白くない。敵役が、なぜ敵役となったのか、敵の論理というものが描かれていなければいけないと私は思う。その点で、この映画は「敵役」(ジョブ・トゥパキという名の「悪の権化」)がなぜ悪の権化になってしまったのかに思いを馳せることができるという点で、非常に面白く楽しめた。
※ということで、この映画のラスボスに触れる以上、多少のネタバレは避けられないだろうが、極力ネタバレは避けた記述を務める。
ラスボス:ジョブ・トゥパキ
さきに書いたように、この映画の主人公・エブリンがなぜ戦うのかというと、強大な敵がいるからである。
このラスボスは先述のように「ジョブ・トゥパキ」なわけだが――。
その正体は未見の人に配慮してここでは書かないが、なぜジョブ・トゥパキがなぜ悪の権化なのかを説明しなくてはならない。
ジョブ・トゥパキというのは、マルチバース(並行世界)すべてを行き来することができる唯一の存在である。ここで少し映画の世界観の説明を加えるが、この映画ではマルチバースという概念が重要となる。この世界にはあらゆる並行世界があり、その世界で私たちは、別の自分を生きている。この並行世界の自分というものがこの映画ではすごく重要なのだが、この記事ではそれは置いておこう。
私たちが一つの世界しか生きることができないように、映画の世界の人間も、基本的には一つの世界しか生きることができない。
私たちは一つの世界しか生きることができない。だから、私たちの人生というものは重いのである。
しかし、いくつもの世界を同時に生きることができる人間がいたとしたら、一つの世界の人生の重さというものはどうなるか――。
それは、耐えられないほど軽いものであるだろう。
だからラスボスのジョブ・トゥパキは、一つ一つの世界の一つ一つの命を、ものすごく軽いものとして扱う。それゆえに、破壊神として悪の権化となるのである。(そして、観ていただければその理由も納得いただけるだろうが、ジョブ・トゥパキは能力に関してもとにかく最強である)
存在の耐えられない軽さ
人生の軽さと重さ
ところで、ミラン・クンデラの名作『存在の耐えられない軽さ』にも、一つの主題として人生の「軽さ」と「重さ」というものが出てくる。
この作品については他の文学作品同様に読んでいろいろな感想を持つ人がいるであろうから、私と真逆の感想を持つ人もいるかもしれないので、そういう場合は流してほしい。(それに、私は『存在の耐えられない軽さ』における「軽さ」と「重さ」の一面しか言及しない)
『存在の耐えられない軽さ』でマルチバースに対応する概念は、ニーチェの「永劫回帰」である(そこまで詳しくはないけれども、このブログの記事を貼っておきます)。
私は寝る前に本を読むのだが、私の「寝る前に読む本」シリーズで最高に素晴らしかったのが、このミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』である。 正直、この本は恋愛小説としてはつまらないかもしれない。だから集英社文庫の帯にある「20世紀[…]
マルチバースと永劫回帰という概念は異なるため、『存在の耐えられない軽さ』では、「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」とは対照的に、「一回しか人生がない(その人生は繰り返さない)のであれば、その人生は耐えられないほど軽いのではないか」という発想につながっている。
しかし、「軽い人生」と「重い人生」があるというのが共通しているのは確かである。
だが私は「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」と『存在の耐えられない軽さ』では、「軽い人生」というものをどう使うかも、一致していないと思う。もっとも、ジョブ・トゥパキと、『存在の耐えられない軽さ』の主人公のトマーシュでは、作品も違えば立場も違うので全く同じ発想にならないのは当然なのであるが。
『存在の耐えられない軽さ』では、「軽さ」が破壊に向かわずに愛に向かうこともあるのである。たとえば人生は軽いからこそ、トマーシュはエリートとしての人生を捨てて愛を優先することができた。人生が重いものではない、と捉えたときに、しがらみのようなものから抜け出すことができるというメリットもあるのだ。
だがジョブ・トゥパキは、人生は軽いからこそ、すべてを破壊する。
ネタバレを避けるという点と、私がこの映画のエンディングをきちんど読解できているかというと怪しい部分があるのであいまいな記述にとどめるが、ジョブ・トゥパキも、人生が軽いから破壊すればいいというわけではないという『存在の耐えられない軽さ』のようなことを理解した時に、一つのエンディングが見える。
(もっとも、ジョブ・トゥパキがハッピーエンドに向かうには、ジョブ・トゥパキ特有の事情(※ネタバレのため記さず)を解決するする必要があるのだが……)
人生は軽い(と思う)がゆえに大事にできることもある。
もちろん、現実には私たちの人生は一回しかないから必ず重いものなのであるが、しかしそんな「重さ」と、逆説的に一度きりの人生の気楽さという「軽さ」があるからこそ、人生は面白いのである。
おわりに
ここまでいろいろと書いてきたが、それはこの映画の一面について私が抱いた一つの感想というだけで、全くこの記事は映画全体をあらわしたものでないし、それを意図したものでもないということはご了承いただければ幸いである。(そもそも、この映画がアジア系にとってエポックメイキングな映画であることにもこの記事で一切触れてこなかったし)
とはいえ、この映画はそんな高尚なメッセージを無理に読み解こうとするよりは、娯楽作品として楽しむべき作品であると思う。
再序盤こそ社会派のような感じではあるが、序盤の勢いでひたすら突っ走っていく展開は映画館の中でも思わず声をあげて笑ってしまうほど面白かったし、下ネタ(ここは趣味がわかれるだろうが)もあったりしてB級映画的なところも多く、とにかくサービス精神の多い映画である。
だがもちろん、勢いだけに頼らない(というか意図的に観客を落ち着かせるような展開もあって、その演出は見どころ)ところもあり、それがこの映画の本領ではある。
しかし、私がこの映画を観て思った漠然としつつも全体的な感想を述べれば、「当たり前のこと」をこの映画は描きたかったのではないかということである。つまり、この映画は一見すると設定などは極めて奇抜なものを採用しているけれども、結局、観た個々人がそれぞれ「普遍的な価値」を見出すことを狙っているのではないかと思った。その普遍的なことというのは、一番は家族愛であり、そして、人生の重さと軽さである。
当たり前のことを「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」は描いていたわけであるが、だがその描き方があまりにも斬新であった。
大胆な奇抜さと、ある意味落ち着く平凡さを同居させた作品だと私は感じた。