フランス文学の一番楽しく読める入門書は?ーーと聞かれたら、この鹿島茂『悪女入門』(講談社現代新書)を薦める。
この『悪女入門』という本、その名の通り男を誘惑し破滅させる「悪女」(ファム・ファタル)になるためのハウツー本なのであるが、そのテキストはフランス文学なのである。
フランス文学に登場する代表的「悪女」を教科書にしているから、「悪女」になりたい女性にも楽しめるし、フランス文学を「悪女」という一面から概観する仏文学の入門書としてならすべての人に楽しめる本ではないかと思うのである。もちろん、私のような男性にもおすすめしたい本である。
「悪女」とは何なのか?
この『悪女入門』が扱う「悪女」の定義をまず紹介する。
この本の「悪女」は、フランス語の「ファム・ファタル」(Femme Fatale)を指す。
余談だがVelvet Undergroundの曲を連想する人もいるのではないか。
では、ファム・ファタルとは何なのか? 通例「運命の女」と訳されるこの言葉だが、さらにその概念を筆者は次のように説明する。
ファム・ファタルとは、その出会いが運命の意志によって定められていると同時に、男にとって「破滅をまねく」ような魅力を放つ女を指すというわけです。
ーーつまり、男がその女性に入れ込んでしまい、身の破滅をもたらしてしまうような女性が、本書の扱う「悪女」なのである。
「悪女」の宝庫・フランス文学
筆者いわく、ファム・ファタルというのは「ヨーロッパ社会でなければ存在しえない」。
近代以前の日本の女性は一般的には抑圧されていたが、そのような社会では「男を破滅させる」ような女性は誕生しにくい、というのは理解できるだろう。さらに筆者はこう続ける。
なかでも、恋愛というものが女にとっても男にとっても人生最大の関心事であるフランス社会は、ファム・ファタルを生み出すのに最も適した土壌と言えます。
そして、フランスで誕生した「ファム・ファタル」を理解することなしに、フランス文学を理解することはできないと筆者は説く。
ファム・ファタルを語らずして、フランス恋愛文学は、いやフランス文学そのものが語れないのです。
「悪女」をケース別分析する
そして、本書は「悪女 ファム・ファタル」を、色々な文学に登場する女性たちから紹介し、読者はその手口を学ぶ。
プルースト『失われた時を求めて』第一篇の「スワンの恋」における男性主人公シャルル・スワンなどは次のようなタイプだと評される。
世の中には、女性が目の前にいるときには、なんの欲望も抱かないのに、女性がいなくなったとたんに恋の疼きを感じる「不在恋愛症候群」とでも呼ぶべき特殊な恋の病におかされている男がいるものなのです。
(数あるこの本の中の例からこの部分を引用してきたのは、何を隠そう私自身がスワンと同じ性質の持ち主だからである)
そしてスワンは最初であった時にはそこまで魅力を感じなかった女性オデットに、どんどん惹かれていってしまう。
ーーそんなような、文学作品における「男を落とす」女性の手の内が説明されているのが本書である。
「悪女」になるための教科書としてこの本を読むなら、相手の男性をケース別分類して読むのが良いだろう。というのも、ファム・ファタルといえども「全ての男を落とせる」わけではない。--「ファム・ファタル」になれるかどうかは、相手の男性との相性に依存するのである。
この本が「実戦」に使えるかはさておき、小説に描かれた「悪女」に興味があったり、フランス文学に関心があったりする方には本当にお薦めの本である。
本書の解説するフランス文学
最後に、本書の解説しているフランス文学の作品について紹介しておこう。
一部マイナーな作品もあるが、読みやすい訳の光文社古典新訳文庫などから出ている作品も多い。
フランスの恋愛文学の読書の手引きとして、非常に有用な本だと思う。
第1講 アヴェ・プレヴォ『マノン・レスコー』
第2講 プロスペル・メリメ『カルメン』
第3講 ミュッセ『フレデリックとベルヌレット』
第4講 バルザック『従妹ベット』
第5講 デュマ・フィス『椿姫』
第6講 フロベール『サランボー』
第7講 ユイスマンス『彼方』
第8講 ゾラ『ナナ』
第9講 プルースト『スワンの恋』(『失われた時を求めて』第一篇第二部)
第10講 アンドレ・ブルトン『ナジャ』
第11講 バタイユ『マダム・エドワルダ』
もちろんこれらの本をまったく知らなくても、本書『悪女入門』は楽しむことができる本であることは申し添えておこう。
背景にあるフランスの文化(サロンや愛人など)についても丁寧に説明されており、全くフランス文学に興味がなくても戸惑うことはないと保証する。
おわりに
この本は2003年のものであるから、「女性観」「男性観」「恋愛観」は多少古いように思う箇所もあるし、ちょっと下司なところなど「古さ」を感じるところも多い。
たとえば、次のような部分である。
オタク的な男というのは、はじめからウッフン調で迫ってくる色気たっぷりの女には萎えてしまうのです。むしろ、性欲があるとはにわかに信じられないような清楚でクールな概観、それでいながら、一皮むけば、マグマのように熱くたぎる情欲を秘めた色情狂、そうした二重性にこそオタクはこころ惹かれるものなのです。
しかし、「古さ」を差し引いてもこの本は傑作だと思う。
まだ電子書籍化していないのが残念なので、ぜひ講談社にはこの本を電子書籍化していただきたいと思う。
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