新書大賞2020も受賞した、大木毅「独ソ戦」(岩波新書)を読んだ。
なるほど新書大賞を受賞するだけのことはあり、面白かった。この本を読んで、考えたことについて記していきたい。
著者について
本書の著者の大木氏は、先日レビューした「「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨」(角川新書)の著者でもある。こちらもよろしければ、あわせてお読みいただきたい。それにしても、大木氏の精力的な執筆活動には脱帽である。
大木氏は、あとがきなどを読む限り、日本の「戦史研究」が学術的なものとして従来扱われてこなかったこと、そして、それによって欧米の研究から見たら時代遅れの説が未だにまかり通ってしまっていることに問題意識を持っている。
確かに「戦史」は、一部のミリタリーマニアのものとされ、日本では学術的研究のメインストリームとはされてこなかったという大木氏の主張に間違いはないだろう。
大木氏が今後も積極的に「戦史」に関する書籍を刊行し、日本における戦史研究への認識のレベルを引き上げてくだされば、非常に意味のあることであると思われる。
ここからは実際に本の内容について考えていく。
なぜ「新書大賞」をとれたのか?
新書大賞2020については、「中央公論 2020年 03 月号」に詳しく記されている。
また、HP「新書大賞|特設ページ|中央公論新社」には、著者のインタビューが掲載されている。
これらを読んでも、著者が「独ソ戦」という未曽有の非人間的な戦闘が、いかにおぞましいものであったかを政治的・経済的・軍事的にうまく書き表したことが評価されていることがわかる。
だが、やはりその題材がセンセーショナルであったというのは、「新書大賞」という賞を受賞したことを評価する上で重要だろう。
「独ソ戦」という言葉自体は有名であるものの、その実態はあまり知られていない題材を取り上げた岩波書店の慧眼には、ひれふすほかない。
そして、その期待に応えて書き上げた大木氏の力量も見事であった。
「世界観戦争」と「収奪戦争」
この本が名著である理由は、「独ソ戦」を、政治的・経済的・軍事的にうまく書き表したからである、と上に書いた。
著者は、独ソ戦を考える上の枠組みとして、「通常戦争」のほかに、「世界観戦争」「収奪戦争」という二つの枠組みを設ける。これが、非常にわかりやすく見事である。
「通常戦争」というのは、説明になっていないが通常の戦争のことである。もちろん、独ソ戦にも通常の戦争としての側面はある。
しかし、独ソ戦をあまりに非人間的な結果を招いた理由は、通常戦争の身では説明できない。
ここで説明に用いられるのが、この二種類の戦争観念である。
「世界観戦争」
「世界観戦争」(絶滅戦争)とは、「相手を絶滅させなければならない」という観念が両国を支配していたことに起因する。
アウシュヴィッツなどの強制収容所でユダヤ人が大量虐殺されていたのはよく知られているが、ナチスドイツはソビエト(ボリシェヴィキ)も滅ぼされるべきだと考えていた。そして、その敵意はソビエトからもドイツに返されることになる。
そして、常軌を逸した戦術が展開されることになり、国家の威信・国体の堅持をかけて両軍は死力を尽くして殺しあった。
また、両軍の相手国に対する捕虜の扱いは過酷ものであり、通常戦争の域を逸脱していた。
ドイツ軍は、英仏米などの捕虜に対しては最低限の扱いをすることが多かったが、ソビエトの捕虜には最低限を下回る扱いをすることが殆どだった。
(余談だが、アメリカ人作家カート・ヴォネガットは第二次大戦中ドイツの捕虜となるも生き延びた。だが、その戦場が独ソ戦であったら彼は生きて帰れなかっただろう。▼関連記事【書評】カート・ヴォネガット「タイタンの妖女」感想)
「収奪戦争」
次に、「収奪戦争」である。ドイツは、自国民の生活水準を保つために、他国を侵略してその労働力と生産物を収奪することを計画した。
この計画のもと、ヒトラーによって「帝国主義」の悪魔が再び東欧を支配した。独ソ戦では、収奪によって戦争を続行することが、開戦前からプログラムされていたのである。こんなものは常軌を逸していると、またしても断罪せざるを得ない。
戦争を続けるためのドイツ国民の支持を得るため、侵略された国は収奪され、ドイツ国民の生活を潤したのである。こうする限り、ドイツ国民は戦争に反対する理由の一つはなくなる。このような理由により、ドイツ国民は共犯者である、とする言説の多くはこの「収奪戦争」に起因するのである。
どうして「非人間的」な戦争が行われてしまったか
以上の二種類の戦争観念こそ、独ソ戦を非人間的な、民間人も多くの犠牲を払う悲惨なものとさせたのである。
「通常戦争」ならいい、というわけではない。
しかし、人間はどのような時に「世界観戦争」や「収奪戦争」を計画遂行できるような悪魔になることができるのか。あるいは、悪魔に取りつかれてしまうのか。
このようなことを思わざるを得ない一冊であった。
そして、我々はその問いを常に持ちながら、現代社会に向き合う必要があるのかもしれない。
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