「優しすぎる父親」は孤独死してしまうのか?ー『ゴリオ爺さん』【あらすじ・感想】

ゴリオ爺さん

老人ホーム(宿泊ありのデイサービス)でボランティアをしたことがある。

実の子どもたちもほとんど世話をしに来てくれないようなお年寄りを目の当たりにして、心が痛んだ。ーーそのようなお年寄りの方々も、若いときは人並み以上に子どもに愛情と金銭を注いだはずなのだ。

そのような姿を見て、私はオノレ・ド・バルザック『ゴリオ爺さん』を思い出した。

ーーだがこの一巻の物語を読み終えた時には、「都(注:パリ)の城壁の内でも外でも」、読者はいくばくかの涙を流すかもしれないのだ。

これがパリ以外の土地でも理解されるだろうか。その疑いももっともだ。ーー

ゴリオ爺さん(新潮文庫)

『ゴリオ爺さん』あらすじ・登場人物

『ゴリオ爺さん』の主人公は当然「ゴリオ爺さん」と言っても差し支えないのだが、語り手であるウージェーヌ・ド・ラスティニャックが主人公と考える方が優勢に思われる。

ーーだが、平岡篤頼はあとがきでこう書いている。

この作品の主人公は、実はゴリオでもラスティニャックでもヴォ―トランでもなく、彼らを包んで渦巻いている、パリそのものであると言って差支えない。

彼らのドラマはパリでしか成立し得ず、それどころかパリという町の複雑怪奇なありようが否応なしに彼らのドラマを生んだ、というのがこの作品の最も妥当な解釈のようである。

確かにそうである。この作品のテーマは「パリという町」の光と闇(栄達と没落)なのである。

ラスティニャックの野心と出世

栄光への野心を表す登場人物は、語り手・ラスティニャックである。

ラスティニャックは法科学生で、ヴォケー館という屋敷に下宿している。

そこで、ゴリオ爺さんーかつては裕福だったが身を持ち崩している老人ーや、ヴォ―トランという謎の男らと出会う。

ヴォ―トランは、ことあるごとにラスティニャックを唆す人物である。

三言でおれの過去を話せばこうなる。おれは何者か? ヴォ―トランだ。おれは何をしているか? 好きなことをしている。そこまではいい。おれの性格を知りたいかね? おれは、おれによくしてくれる人間とか、おれとうまがある人間には親切な男だ。そういう連中には何をされても許す(中略)ところが、どっこい、おれにうるさいことを言ったり、おれの気にくわなかったりするやつらには、おれは悪魔みたいに意地悪なんだ。

ラスティニャックは社交界への憧れを抱き、勉強をやめて社交界入りのために努力する。

幸運にも彼の親戚ボーセアン子爵夫人は社交界の花形であり、彼女にラスティニャックは手ほどきを受ける。

「わたしはどうしても後楯がほしいので、ほんのわずかな縁続きでもありがたいのです」 

だが、ラスティニャックには金がない。

それじゃあやはり、パリの女に振返ってもらうためには、ぴちぴちした駿馬や、召使の黄金がなくちゃならないというのか? 

ラスティニャックは、ただでさえ困窮している家族になんとかしてお金を送ってもらう。--その責任感から、ラスティニャックは社交界での出世のために手段を選ばないような野心家になる。

ラスティニャックは、ボーセアン夫人の後ろ楯もあってニシュンゲン夫人の愛人となり、社交界での栄達を目指していく。

 ーーニシュンゲン夫人の父親こそ、ゴリオ爺さんなのである。

『ゴリオ爺さん』の物語は「パリの物語」であると述べた。

ラスティニャックの物語は、当時のパリの世相と文化を表したもので、現代の我々には馴染みのないものである。しかし、そこにフランス文学の楽しみがあるともいえよう。

一方『ゴリオ爺さん』の描くパリは、現代の都市にも通じるものもあるーー飽食の都市・パリの悲劇を表した登場人物こそ、小説の題にもなっている「ゴリオ爺さん」なのではないかと思う


 
 

ゴリオ爺さん

ラスティニャックと対照的に没落を表す登場人物は、ゴリオ爺さんである。

彼は、製麺業者として財を成し、成金として娘たちを社交界に送り出す。

その後も、惜しみない援助を娘たちにおくり、自分の生活も切り崩すほどになる。

しかし、娘たちは最後の最後までゴリオに金銭を要求し、ゴリオはついに卒中で倒れる。

そして最期はウージェーヌ一人に看取られ、悲惨な最期を迎える。

ああ、わしが金持ちだったら、わしの財産をとっておいて、娘たちにやらないでいたら、娘はここに来て接吻しながらわしの頬をなめたことじゃろうに!

(中略)

わしがあまりに愛情を注ぎすぎたんで、あの子たちはわしに愛情を持つ余裕がなくなったのじゃ。

ーーこのゴリオ爺さんの最期の台詞は、ごく一部だけ引用したが、原典は非常に長く、胸を打つものがある。

「金がない人間にどこまで人は冷たくなれるのか」というのを、金を失った人間が表現した悲痛な叫びである。

しかし、ゴリオ爺さんの悲劇は、一度金を得てしまったがゆえの悲劇なのである。

社会的に成功することは、人生の成功を意味するのか? そこに、今の私たちにも通じるものがある。

『ゴリオ爺さん』の結末

ゴリオ爺さんは、娘に看取られることなく卒する。

そして、ウージェーヌは弔い合戦のごとく、パリの上流社交界に挑戦状をたたきつけて物語は終わる。

「さあ今度は、おれとお前の勝負だ!」

『ゴリオ爺さん』の描く家族

『ゴリオ爺さん』の一つの重要なテーマは、「家族」だと思う。

「家族」というテーマは。ラスティニャックにもゴリオ爺さんにも関わる。

ラスティニャックは世渡りと金銭欲のみを行動原理としている、としばしば批評されるが、彼の行動原理には、「家族のため」という強迫観念がある

ゴリオ爺さんは娘のために破滅したが、ウージェーヌ・ド・ラスティニャックの家族も彼のために犠牲を強いられているのである。だからウージェーヌは家族を裏切れないというプレッシャーに常に襲われている。

ここに、犠牲となる人物ゴリオと、犠牲を強いる人物ラスティニャックという対比が成立している。

この対比は、この小説の面白いところなのではないかと、私は思う。

最後にラスティニャックが突き付けた挑戦状の意味は何だったのか?

ーーひとつには、自分の家族を「第二のゴリオ爺さん」にさせるものか、という思いがあったのではないかと考える。

だが、ラスティニャックは決して「家族思い」「親孝行」の人物ではない

本当に家族思いなのだとしたら、そのようなことは絶対にしないだろう。

あくまで彼は野心家なのである。ーー時には一時的に一文無しになってまで賭けに出る。彼の姿は、「カイジ」の伊藤開司の姿とも重なるのではないかと思うが、そこに小説の主人公としての面白さがある。ことあるごとにラスティニャックをけしかけたり唆したりする謎の人物・ヴォ―トランもこの小説の魅力の一つである。

非道徳的な登場人物

この小説の登場人物は、皆褒められるような人物ではない。『ゴリオ爺さん』が発表された当時、毀誉褒貶の激しかった理由はそこにある。

しかし、この小説は必ずしも道徳的・倫理的でない人物の繰り広げるドラマであるがゆえに、面白いのではないかと思うのである。


 
 

おわりに 

『人間喜劇』の一部として

『ゴリオ爺さん』という作品は単体の作品でもあるが、バルザックの『人間喜劇』という小説群の中核を占める作品である。バルザックは、自分で自分の「世界」を構築した作家なのである。

『ゴリオ爺さん』以外の『人間喜劇』作品は読めていないのだが、まずは『ゴリオ爺さん』を読み、この作品やこの作品の登場人物(特にヴォ―トラン)に興味を持ったら、他の『人間喜劇』を読むというのが良いのではないだろうか。

『ゴリオ爺さん』の哀しさ

やはり、記事冒頭にも記したように、ゴリオ爺さんを読むとかつて老人ホームで出会ったお年寄りの方々を思い浮かべてしまう。--家族がいるのに、家族が会いに来ない方々である。

この意味では『ゴリオ爺さん』の描いた家族の悲劇というものは、現代にも通じる普遍的な価値を持っているのではないかと思う。

家族に見捨てられたものの哀しさと、家族を犠牲にして成り上がろうとする人間の冷酷さである。

そんな人間への考察を、パリという極端な華々しさと暗部を同時に併せ持つ街を舞台にして書きあげた名作が、『ゴリオ爺さん』なのではないかと思う。

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ちなみに私が読んだのは新潮文庫版だが、『ゴリオ爺さん』の光文社古典新訳文庫版はKindle Unlimitedという定額読み放題サービスで読める(2020年2月時点)。

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ゴリオ爺さん (古典新訳文庫)

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ゴリオ爺さん(新潮文庫)

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