ひさびさにノーベル文学賞作家の作品を紹介したい。
今回紹介するのは、南アフリカの作家J.M.クッツェーの『マイケル・K』だ。
内戦下の南アフリカを舞台にした小説で、やはり日本の小説にはない魅力がある。
『マイケル・K』あらすじ
はじめに少しだけあらすじを紹介しよう。
『マイケル・K』の舞台は、内戦下の南アフリカである。
主人公マイケル・Kは口唇裂の壮年男性で、容貌のゆえもあって幼少期に寄宿学校で虐待に遭うなど、恵まれない生活を送っていた。また、マイケルはやや愚鈍なところがあり、それもマイケルが他人から見下される要因になっている。
それでもマイケルは、ケープタウンで庭師として生計を立てていた。
マイケルの母アンナ・Kもケープタウンで住み込みの家政婦をしていたが、内戦が始まり、健康を害する。
死を悟ったマイケルの母は、故郷の農村プリンス・アルバートにマイケルと共に行こうとするが、戒厳令下で人々の往来の自由は制限されており、一向にプリンス・アルバート行きの許可は出なかった。
マイケルは、母を手作りの手押し車に載せ、プリンス・アルバートを目指す。
しかし、その途中で母は亡くなってしまう。
マイケルは母の遺灰とともにプリンス・アルバートに行きつき、捨てられた屋敷で生活する。しかし、その屋敷の持ち主の一族の青年がやってきて、マイケルを使用人として扱うと、マイケルはその生活に嫌気がさす。
マイケルは山で自給自足の生活を送る。
保護されることもあるが、マイケルは福祉を受けることも嫌う。
そして、マイケルは大地と共に生きていくことを決意する……
『マイケル・K』感想・考察
あらすじを紹介すると、以上のようになる。
この作品は、非常に寓話的であり、筋書き自体は単純で面白みがないかもしれない。
しかし、物語の凄さは細部に宿っている。
クッツェーの淡々とした文体による描写は、息をのむほどの上手さだ。筋書きに面白さを感じられなくても、ノーベル文学賞作家の表現力を体験したい人はぜひ読んでみてほしい(くぼたのぞみ訳も、ものすごく上手い)。
内戦下の南アフリカ
また、この作品で描かれる内戦下の南アフリカの状況は、もちろん額面通り史実と受け取ることはできないものの、非常に参考になった。
戒厳令下の都市、内戦下の労働キャンプの実態、脱走兵の存在、そもそも内戦ではどのような勢力とどのような勢力が争っているのか……
内戦によって市民に生じる様々な出来事を淡々と描いた戦争文学としても、『マイケル・K』は際立っている。
なお、南アフリカといえばアパルトヘイトだが、この作品はアパルトヘイト政策下の南アフリカで厳しい検閲による発禁を逃れるためか、アパルトヘイトの描写はそれほど登場しない。
しかし、そのような作品背景に思いを馳せると、一層クッツェーの凄さと『マイケル・K』という作品の時代的な意味が分かってくるように思える。
ある意味において『マイケル・K』は、完璧なディストピア小説である。事実をもとに描写したという点で。――そして、内戦下のディストピアで出版されたという点で。
マイケルは現代の伯夷・叔斉である
ここからは、内容について考察していきたい。
この物語は、中国の故事である「伯夷・叔斉」(はくい・しゅくせい)の話に近いかもしれない、と感じた。
伯夷・叔斉というのは兄弟で、古代中国の人物である。逸話の要点は以下のようなものだ。
殷の時代「酒池肉林」などの逸話で知られる紂王を、周の武王が討って周王朝を立て、周王朝が中国を治めることとなった。
しかし、伯夷叔斉の兄弟は、本来主君である紂王を武王が討ったことを良しとせず、周の穀物を食べることを拒み、山に隠棲して山菜だけを食べて過ごし、最期には餓死した。
伯夷叔斉は儒教では聖人とされており、司馬遷は『史記列伝』で、伯夷・叔斉の話を冒頭に持ってきている。
話を戻すと、マイケル・Kも、作中で次第に病院などでの食事を拒むようになっていく。
マイケルは、庭師のスキルを活用して自分で栽培したカボチャや、自分で狩猟した小動物だけを食べて生活するようになっていくのである。
マイケル・Kの話と、伯夷・叔斉の話にそこまで共通項はないかもしれないが、一つだけ確実に言えるのは、他人の禄を食むことを拒んだという点である。
伯夷・叔斉は、国を統治する武王が不義であるから、その国で生産される食物を拒んだ。マイケル・Kも、人から食べ物を与えられることを拒んだ。
では、なぜマイケル・Kは、人から食べ物を与えられることを拒んだのか?
色々な解釈ができると思うが、マイケルは労使関係のような人間の支配関係を徹底的に拒み、自由であろうとする。だから、人から食べ物を与えられることも拒むのである。
そして、もう一つには大地そのものへの信仰である。
大地から生まれたのではない人工的な食べ物を口にすることを、マイケルは拒むのだ。
医師から見たマイケル・K
ところで、この小説の構成の面白いところは、3章構成の物語(と言っても、物語は第1章が長く、第2章は短め、第3章はとても短い)のうち、第2章だけは、マイケルを診察した医師の手記の体裁をとっている点である。
第2章が医師を語り手にしていることによって、読者は、マイケルKが外部からどのように見られているのかを改めて知るようになる。
たとえば、マイケルの頭がやや鈍いことは小説の冒頭から明らかなのだが、医師の語りによって改めて客観的にマイケルの知的レベルが明らかになるところなどは、小説の技巧として非常に面白い。
そしてもう一つ。
医師から見るとマイケルは、母であるアンナ・Kの犠牲者だというのである。
母が存命だった時、マイケルの生きる意味は、母を守る事だった。それ以外の目的はなかったのである。
マイケル・Kは、口唇裂であった。それゆえ、母アンナは、マイケルに外界と多くのかかわりを持たせようとはしなかった。それゆえに、マイケルは人間との関わり方を学ぶことができなかった。
そのことを、医師は非難する。
アンナ・Kは、息子に十分な愛情を注がず、社会との関わり方を教えず、自分の世話だけをさせた、と。
――しかし、おそらく医師のその批判は、完全には当たらない。
マイケルは自分の生きる意味は大地と共に生き、自分の生きた痕跡を残さないことであるという確固とした信念を持つのである。
医師は、次第にマイケルに対して畏敬の念すら抱くようになる。
* * *
労働キャンプに暮らす多くの人々のように、家族と生きるために他人に従う生活を送るのも、一つの生き方である。
マイケル・Kは自分自身でそう問いかけることもあるが、もし彼に家族がいたら、きっとそのような生活を送っていただろう。
しかし、家族のいないマイケルは、大地と共に生きることを選ぶ。
どちらも人間の崇高な生き方だろう。『マイケル・K』は、そんな人間の力強さが描かれている。
おわりに
ここまで、個人的な『マイケル・K』の感想を書いてきた。
だが、『マイケル・K』という作品の持つ魅力は決して語りつくすことはできない。読んだ人によって、まったく違う感想を持つだろう。それがノーベル文学賞作家の凄さだ。
他のクッツェーの作品も読んでいきたい。
- 作者:J.M.クッツェー
- 発売日: 2015/04/17
- メディア: 文庫
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