ナボコフ『ロリータ』にまつわる誤解【あらすじ・感想・完全解説】

ナボコフ『ロリータ』にまつわる誤解【あらすじ・感想・完全解説】
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いわゆる「ロリコン」や「ロリキャラ」あるいは「ゴスロリ」「ロリータファッション」などの「ロリ」というのは、ロシア出身のアメリカの作家ウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』に登場する少女ドロレス・ヘイズの愛称「ロリータ」に由来している

「ロリコン」(ロリータ・コンプレックス)が、未熟な少女を恋愛対象にする成人男性の嗜好を表していることもあって、この『ロリータ』という作品は「いかがわしい作品」と思われているだろう。

まあ「いかがわしい作品」というのは完全には否定できないのだが、この作品はすぐれた文学作品としても多くの批評家・作家から賞賛を受けている作品でもある。そして私も実際にこの本を読んでみて「いかがわしいだけの作品」では決してないと思った。

というわけで、今回は『ロリータ』について、私が読む前に(勝手に)考えていた偏見と、実際に読んでから感じたことのギャップを中心に、この作品の面白さについて書いてみたい。

ロリータ (新潮文庫)

『ロリータ』あらすじ

はじめに、『ロリータ』のあらすじについて紹介していく。この記事では、物語の一番の核心には触れないようにするが、かなりネタバレがあるので。

この小説は、殺人を犯し、刑務所での裁判を待っている間に最近心臓病で亡くなった「ハンバート・ハンバート」という男性によって書かれた回想録の形をとる(手記の序文は、物語を読み終えた後にもう一度読むと納得できる内容になっている)。

第一部

回想録は、パリで生まれたハンバートの幼少期から始まる。

彼は幼少期に保養地で、友人のアナベル・リーと恋に落ちる。しかし、アナベルはすぐにチフスによってこの世を去ってしまい、この恋は肉体的には満たされることがなかった。

その一件以来、ハンバートはアナベルの幻影を追い求めて、9歳から14歳の特定のタイプの女子(「ニンフェット」と定義される)に性的に取り付かれるようになってしまう。

「ニンフェット」は、9歳から14歳で、彼女たちの倍はある年齢の男性に対して特別に魅惑する能力を持っている、と定義される。

ハンバートは大人になって文学者となり、第二次世界大戦の勃発前にアメリカに移住する。

しかしあるとき、彼が住むつもりだった家が火事で燃えてしまう。新しい家を探す彼は借家人を受け入れている未亡人のシャーロット・ヘイズに出会う。そこでハンバートは、シャーロットの12歳の娘のドロレス(愛称ロリータ)の姿を見てしまう。

ロリータこそ、ハンバートが追い求めたアナベルの幻影の体現者であったのだ。

ハンバートは、外見としては理知的でハンサムな中年である。未亡人シャーロットはハンバートに惚れ、結婚を申し込む。そしてハンバートも、ロリータの養父となること、つまり身近にロリータを置けるようになることに惹かれ、シャーロットとの結婚を受け入れる。

ロリータはシャーロットに反抗的であり、これもハンバートに味方してハンバートとロリータは親密になる。しかし、ロリータを手元に置きたいハンバートと、手放したいシャーロットとの間で緊張が生まれるなど、夫婦関係は危うさを孕んでいる。

ある時、ロリータが林間学校に出かけている間、ハンバートとロリータの仲がシャーロットに露見する。

シャーロットは激怒し、取り乱す。そして、錯乱状態のなか交通事故で亡くなる。

ハンバートはロリータと再会する。ロリータは自分が処女でないことをハンバートに告げ、二人は関係を持つ。そしてハンバートは、シャーロットが亡くなったことをロリータに告げる。

第二部

ハンバートはロリータを連れてアメリカ全土への旅に出る

旅行には、ロリータの歓心を買うためという意味もあった。だが、行為と引き換えに、ロリータはより多くのものを求めるようになっていく。ロリータは、時には口汚い言葉でハンバートを罵るようになる。

ハンバートとロリータは、小さな町ビアズリーに落ち着き、ロリータは女学校に通い始める。

ロリータはそこでハンバートの厳格な統制のもとで学校生活を送るが、演劇の練習などを始める。しかし劇の公演の前日、ロリータは学校で亀裂を生む。

そしてハンバートとロリータは、再び自動車での旅に出る。

だが、その一行の後をつける車がある。ハンバートは、この車の持ち主がこっそりロリータと関係を持っているのではないかと疑う。

折しもロリータが病気になり、ハンバートは彼女を地元の病院に入れる。

だが、ハンバートが翌日見舞いに行くと、ロリータはすでに親戚を名乗る男に引き取られて退院していた。ロリータはハンバートの元から連れ去られたのである。

ハンバートはロリータと、ロリータの親戚を名乗った男(もちろん、ロリータの実際の親戚ではない)を追うが、見つけることができなかった。

2年後、失意のハンバートに、突然ロリータからお金が必要であることを伝える手紙を受け取る。ロリータは、結婚し、妊娠しているという。

ハンバートはロリータの住所を追跡し、彼女にお金を渡す。ロリータに、もはやニンフェットの魅力はなかった。

だが、ハンバートは、自分が彼女のことを愛していることに気づく。ロリータに一緒にいてほしいと哀願するが、受け入れられない。ハンバートは武装し、ロリータを2年前連れ去った男のもとへ行き、彼に何発もの銃弾を浴びせた。

――回顧録は以上の通りである。

『ロリータ』についての個人的誤解

ここからは、『ロリータ』について、私が読む前に勝手に抱いていた印象と、読む後の印象の変化について書いていきたい。

まったくもって個人的な意見ではあるが、少しは一般的な「誤解」を解くことができるのではないかと思っている。

「ロリータ」は清純派でない

そもそも「ロリータ」という人物についてだが、一般的な「ロリコン」が好きそうとは到底言えない女性である。あらすじにも書いたが、ロリータの最初の相手はハンバートではない。要はロリータは非処女である。

(最初の相手は誰なのか? この辺は、原作をしっかり読んでみてほしい)

ロリータは全然清純派ではない。あと言葉遣いも汚い

年齢・体つきは未熟な面もあるが、基本的には性的に成熟しているのである。俗にいう「ロリっぽい」という言葉は未成熟と無垢さを表現することも多いと思うが、本家ロリータにはあたらないのかもしれない。

そもそも日本で使われる「ロリータ」という言葉は、本来の語源である「ロリータことドロレス・ヘイズ」とは、全く違う意味の言葉となって独り歩きしていることに注意する必要がある。また「ロリータ・ファッション」なんていう言葉もあるが、小説中のロリータのファッションに関する記述はまったく「ロリータ・ファッション」ではない

『ロリータ』はポルノ小説ではない

そして、『ロリータ』は決してポルノ小説ではない

一般的な官能小説は、行為のシーンを無駄に生々しく書くものだが、『ロリータ』はそのような小説ではない。確かに少女と中年男性という組み合わせ自体がセンセーショナルではあるが、そもそもの組み合わせが危険なだけで、小説として全く普通の範囲内である。

そもそも語り手ハンバートを信じてはいけない

ただ、ここまで書いておきながら前言を翻してしまうようだが、前述の「ロリータ像」には、実は留保をつけなくてはならないのかもしれない。

思い出してほしいのだが、この小説は殺人者ハンバートが獄中で書いた手記である。私たちが目にする「ませていて」「口汚い」ロリータの姿は、客観的な事実ではない。すべてハンバートというフィルターを通した像なのである。

いわゆる「信頼できない語り手」という小説技法であるが、『ロリータ』では、語り手自身がそのことを堂々と宣言している点にある。手記の最序盤で、ハンバートはこう書いている。

You can always count on a murderer for a fancy prose style.

「殺人者というものは、必ず凝った文体を書くと思っていただいていい」といったところだろうか。つまりこの美文の書き手は、自分の文章が自己弁護のための「凝った文体」であることを、最初から白状しているのである。

ハンバートの手記は、もともと裁判に向けて書かれた、いわば法廷弁論である。彼は読者を陪審員に見立てて「紳士淑女の陪審員のみなさん」と繰り返し呼びかけながら、自分の行為をいかに情状酌量の余地あるものに見せるかに全力を注いでいる。だから、ロリータが「誘惑してきた」ように見える場面も、彼女が「ませた小娘」に見える描写も、割り引いて読まなくてはならないのかもしれない。

先ほどロリータは「ポルノ小説ではない」と書いたが、生々しい描写がないのは、この手記はあくまでハンバートによる「美化された弁明」だからという面はあるだろう。彼は自分の欲望を詩的なレトリックで包み、行為の実態を美文の下に隠しているとも評価できる。

『ロリータ』は推理小説である。

『ロリータ』が「ポルノ小説」ではないというなら、『ロリータ』はどのような小説なのか

一概に言えるものではないが、ここではあえて断言すれば、『ロリータ』は推理小説である

ここまで「信頼できない語り手」についても触れてきたが、個人的に『ロリータ』で一番面白かったのは、どの部分が伏線になっているのか? を後から確認することであった。

伏線の内容についてはここで書いたらつまらないと思うし、あらすじにも特に紹介しなかったが、張り巡らされた伏線の巧みさには目を見張るものがある。「伏線回収」に物語の美しさを感じるタイプの読書人に、ぜひお薦めしたい一冊である。

そしてこの「推理小説」としての面白さは、語り手が信頼できないことと表裏一体である。再読の楽しみは伏線探しだけではない。ハンバートがどこで嘘をつき、何を語り落としているのかを探すという、もう一段深い謎解きがあるのだ。あらすじの冒頭に「序文は読み終えた後にもう一度読むと納得できる」と書いたが、この小説は全体が、二度読まれることを前提に設計されている。

『ロリータ』の価値は言葉遊びにある

ところで作者ウラジーミル・ナボコフはもともとロシア出身で、ロシア革命の際に亡命し、最終的にアメリカにわたって『ロリータ』を英語で書いた人物である。

つまり、『ロリータ』は、英語を母語としない人間が英語で書いた本なのである。

それにもかかわらず、『ロリータ』には色々な言葉遊びが含まれている。まずこの事実に、脱帽である。

新潮文庫のナボコフの著者紹介には

ロシア・アメリカ文学史上に屹立する異形の大作家

とあるが、これほどうまくナボコフを形容する言葉もないだろう。

さて、どんな言葉遊びが含まれているのかについてだが、例えばアリタレーション(頭韻)である。

『ロリータ』の原作中最も有名なフレーズは、次のような書き出しだろう。

Lolita, light of my life, fire of my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo. Lee. Ta.

「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。」……原文では「L」のアリタレーションが印象的な書き出しである。

この部分に限らずナボコフの言葉遊びをどのように訳したか、訳者の若島正先生は解説で次のように書いている。

下書きを読んでもらった人にアリタレーションのある箇所を全部チェックしてもらったら、付箋が100以上付きました。それを順番にやっていったんですが、方針としてはLの音だったら「ら行」の音で合わせる。それがダメなら別の行の音で合わせる。

図書新聞サイト 訳者若島正×沼野充義対談より)

この対談で、若島正は翻訳の裏話をいろいろ語っている。物語の終盤、数年ぶりに再会したロリータに愛を訴えるハンバートに対して、原文でロリータは “You’re crazy.” と返す。若島先生はこれを、関西弁で言えば「アンタ、アホちゃう?」くらいのニュアンスだと捉えたうえで、さすがにロリータに関西弁を喋らせるわけにはいかないので

頭おかしいんじゃないの

図書新聞サイト 訳者若島正×沼野充義対談より)

と訳したのだという。ハンバートの人生を賭けた愛の告白に対する答えを、ロリータが一蹴するのだ。

なお『ロリータ』の邦訳は、アメリカでベストセラーになった翌年の1959年に河出書房新社から出た大久保康雄訳に始まる。現在流通している新潮文庫版は2005年の若島正による新訳で、豊富な訳注も含めて、いま読むならこの決定版一択である。

『ロリータ』の小説全体では日本語訳だとすべては味わえないが、それでも「ああ、ここは言葉遊びなんだな」とわかるように訳出されているものも多く、この小説は十分に言葉の面白さを楽しむことができる。

『ロリータ』は、作者の圧倒的な言語センスに触れることができる本なのである。

それでも『ロリータ』は恋愛小説ではない

そしてここまで、『ロリータ』の技巧の面白さについて書き、 ロリータの「推理小説性」について書いてきた。重ねてになるが、『ロリータ』は恋愛小説ではないのである。

イランの文学者アーザル・ナフィーシーは、テヘランの自宅で女子学生たちと秘密の読書会を開いた回想録『テヘランでロリータを読む』の中で、ロリータを「二重の被害者」と呼んだ。人生を奪われただけでなく、自分の人生について語る権利をも奪われている、という意味である。手記のどこにも彼女自身の声がないというこの小説の構造そのものが、彼女が受けた被害の形をしているのだ。

物語の最後、警察を待つハンバートが回想するある場面。ロリータが姿を消した後、彼は山道の高台から、眼下の町で遊ぶ子供たちの声が混ざり合った響きに耳を澄ませる。そしてハンバートはロリータが自分の隣にいないことではなく、子どもたちの遊び越えの和音の中に、ロリータの声が欠けていることに気づく。原文では “the absence of her voice from that concord” という一句である。

この一瞬、ハンバート自身も悟ったように、彼はドロレス・ヘイズという一人の少女から、子供時代そのものを奪ったのである。『ロリータ』は「恋愛小説」ではなく、ハンバートが罪を覆い隠そうとした手記である。だからこそこの小説は推理小説であり、読者に仕掛けられた罠であり、そして傑作なのである。

おわりに

色々ここまで書いたが、やはり『ロリータ』を読んでおいてよかった、と思う。

「いかがわしいから」という理由でこの小説を避けるのは、実はまったく逆なのだ。この小説は、いかがわしさを期待して読めば裏切られ、いかがわしさに身構えて読めば、その奥にある痛切さに撃たれる。そういう本である。

今まで「ちょっといかがわしいから」という理由で『ロリータ』を避けてきた方には、ぜひこの機会に読んでみていただきたい。

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