『タタール人の砂漠』あらすじ・感想ー読むとしばらく立ち直れない本

タタール人の砂漠

人生とは、有限で、老いとともに色々な可能性を失っていくもので、短く、たいていの人は何かを成し遂げることさえできずに終幕を迎えるものである。

そのようなことをテーマにした世界文学の名作として、イタリアの作家ディーノ・ブッツァーティの『タタール人の砂漠』という作品がある。

ディーノ・ブッツァーティは「イタリアのカフカ」と呼ばれている作家である。個人的には、カフカの作品の難解さに比べて、ブッツァーティの作品はわかりやすいように思う。しかし、わかりやすいがゆえにカフカ作品よりも強烈に刺さるような気がする。カフカ作品が遅効性の毒だとすれば、『タタール人の砂漠』は、即効性の毒である。

だから『タタール人の砂漠』を読んでしまうと、しばらく呆然としてしまって立ち直れない。私はそうだった。しかし、この作品を読む前と後では、きっと生き方についての考えが少し変化すると思う。

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

『タタール人の砂漠』あらすじ

『タタール人の砂漠』の主人公は、若い将校であるジョヴァンニ・ドローゴである。

将校に任官したジョヴァンニ・ドローゴは、九月のある朝、最初の任地バスティアーニ砦に赴くべく、町を出立した

ドローゴの任地となるバスティアーニ砦は、「彼がたずねた相手はだれも実際にはそこへいったことがない」場所であった。

ドローゴはバスティアーニ砦に向かうが、一向に砦の姿は見えてこず、ドローゴは不安に襲われる。

「砦を探しているのだが、これがそうか?」

「ここには砦はもうありませんぜ」(中略)

「じゃあ、砦はどこだ」(中略)

「どの砦です? ひょっとしたら、あれですかな?」そう言いながら、男は片手を挙げて、なにかを指さした。

そのとき、ジョヴァンニ・ドローゴは、もう闇に覆われた近くの崖の切れ目のあいだ、混沌として幾重にも重なる山々のむこう、計り知れぬほど遠くに、まだ赤く夕陽を浴びた、まるで魔法から湧き出たような裸の山の姿を目にした。そして、その頂きには一種独特の黄味を帯びた規則正しい幾何学的な線が見えた、砦の輪郭だ。

ジョヴァンニは砦の姿に魅せられる。

翌朝、ジョバンニは砦に近づき、ようやくバスティアーニ砦に配属されている軍人であるオルティス大尉に出会う。

ジョヴァンニは、オルティスに砦の話を聞くが、オルティスはジョヴァンニの期待に反して砦の悪口ばかりを言う。

「無用の国境線上にあるんだ」オルティスは付け加えた。「だからいっこうに修築しようとしないんだ、一世紀前とあいかわらずおなじさ」

オルティスによれば、バスティアーニ砦は「タタール人の砂漠」と呼ばれる砂漠に面し、国境を守備している。

しかし、「タタール人の襲来」の懸念はもはや大昔の伝説上の出来事であり、いまやバスティアーニ砦はお飾りも同然なのであるという。

ジョヴァンニは、実際にバスティアーニ砦に着いて幻滅する。

そしてジョヴァンニは、すぐさまバスティアーニ砦から逃れるための工作を行おうとする。しかし、その工作はうまくいかず、ジョヴァンニは砦に留め置かれる。

だが、砦での二年がたってようやく砦から出る絶好の機会が訪れると、ジョヴァンニは自分でこの機会をふいにしてしまう。

北からは、城壁のむこうの、眼には見えぬ北方からは、自分の運命が迫って来つつあるのを、ドローゴは感じた。

ジョヴァンニは、バスティアーニ砦の北からタタール人が襲来し、自分が英雄になるという「希望」に支えられ、砦に残る決心をしたのだ。

そしてジョヴァンニ・ドローゴは、ひとつの「希望」に支えられて、町とは隔絶された砦で一生を送っていく。

ついにタタール人が襲来し「希望」が現実のものとなった時、ジョヴァンニは病魔に襲われており、軍人として活躍することが叶わないままバスティアーニ砦を去っていくのであった……。

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『タタール人の砂漠』感想・考察

『タタール人の砂漠』は以上のような話である。

ストーリーとしては、ジョヴァンニ・ドローゴという一人の軍人が、ただひたすら孤独な砦で青春を浪費していく話であるが、この作品には「人生とは何か」というテーマが込められている。

人生とは何なのか

記事の冒頭に書いたように、人生とは、有限で、老いとともに色々な可能性を失っていくもので、短く、たいていの人は何かを成し遂げることさえできずに終幕を迎えるものである。

ジョヴァンニの人生には、色々な可能性があった。

町で恋愛し結婚し、子どもをもうけたり。さまざまな世界を見聞したり。

しかし、ジョヴァンニは、町から隔絶された砦での生活を選んだのである。

こうしてジョヴァンニは、砦以外の「可能性」を失ったのである。

ジョヴァンニ・ドローゴの生き方

では、なぜジョヴァンニは、砦に残ったのか。

それは第一には、「タタール人が襲来し、自分が英雄になる」という一抹の希望を夢見てしまったからである。

私たちの多くは、人生の中で、自分が「何者か」になることを夢見る。ジョヴァンニも同じである。

もう一つは、砦にいることに慣れてしまったからである。

最初のころは耐えがたいものに思えた警備勤務も習慣になってしまった。

(中略)

勤務が習熟するにつれて、特別な喜びも湧いてきたし、兵士や下士官たちの彼に対する経緯も増していった。

「私はこんなところにいるべき人間ではない」とはじめは思っていたのに、次第に慣れてしまう。それどころか、その環境に順応することに喜びさえ感じてしまう。そういった経験は多くの人が持っていると思う。

ジョヴァンニも、こうして砦にいることを進んで選んでしまったのだ。

もちろん、それによってジョヴァンニは多くの「可能性」を失ったのだけれども。

『タタール人の砂漠』を読み終わった私は、今まで無為に過ごしてしまった人生の取り返しのつかなさに絶望するとともに、これから来る人生の無意味さに恐怖してしまった。

でも、人生は、そういうものなのかもしれない。

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おわりに

『タタール人の砂漠』が「人生はこういうものだ」という慰藉となるか、「こういう人生は嫌だ」という恐怖小説となるかは、読む人次第だと思う。

しかし、いずれにしろ、『タタール人の砂漠』は、生き方についての何かしらのヒントを与えてくれる作品だと思う。

ところでブッツァーティは「幻想作家」といわれることもあるが、『タタール人の砂漠』では非現実的な出来事は起こらないものの幻想的な描写が多い。テーマのみならず描写も巧みで、小説として非常に完成度の高い作品であり、心からおすすめしたい作品である。

またブッツァーティは、岩波文庫の『七人の使者・神を見た犬 他十三篇』をはじめとして多くの短編集も邦訳されているのでおすすめ。

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『タタール人の砂漠』は、ブッツァーティはもともと『砦』というタイトルをつけようとしていたらしい。カフカの『城』に似ているところが多い。

安部公房の『砂の女』も『タタール人の砂漠』に似ている作品。