ジッド『背徳者』あらすじ・感想ー「人間らしさ」への目覚めと背徳の誘惑

背徳者

長いあいだ閉じこもった部屋にこもりきりになる経験は、コロナ禍で多くの人が思わず経験することになったかもしれない。私もその一人である。

閉じこもった生活を続けた後で太陽のもとに出ると「生きていること」の素晴らしさを実感する。そして、なんでもできるような気分になるのだ。

フランスのノーベル文学賞作家アンドレ・ジッドによる初めての小説である『背徳者』(背徳の人)も、ある意味においては、長い間こもりきりであったり病気であったりした主人公が、燦燦とする太陽を浴びて「生きていること」の素晴らしさを実感する物語である。

だが、この作品は題名『背徳者』が示すように、「生きていることの素晴らしさ」に目覚めた主人公は他人を顧みない快楽主義的な「背徳」へと向かってしまう。だが、彼が太陽のもとで感じた「人間らしさ」は間違いなく真実として実感されたものである。ジッドの小説は、私が思うに、「人間らしさ」と「不道徳」という、一見対称的に思えて実は似ているものについて問いかけたものではないかと思う。

背徳者 (岩波文庫 赤 558-1)

『背徳者』あらすじ

はじめに軽く『背徳者』のあらすじを紹介したい。

第一部

主人公ミシェルは、厳格な両親のもとに生まれた。

母親はミシェルが15歳の時に亡くなるが、母親は厳格なユグノー(フランスのカルヴァン派。プロテスタントのキリスト教徒)であった。

一方父親は《無神論者》であり、父のもとで育ったミシェルは信心深い青年にはならなかったが、しかし、

母に教え込まれたあの苦行の精神は、やがてわたしの趣味となって、学問の修行についてもそれがそっくり現れたのだ。

というように、母から教え込まれたストイックさは、学問という形で消化することになった。

こうしてミシェルは、母語であるフランス語と、すでに習っていたラテン語、ギリシャ語に加えて、学者である父に教えられて成人するまでにヘブライ語、サンスクリット語、ペルシャ語、アラビア語をも習得した。

ミシェルは一流の学者として仲間入りを果たしてからも、ストイックな生活を続けた。

父とわたしには、些細な物で事足りていた。二人の費やしたものはごく僅かで、わたしが、二十五歳にもなりながら、うちが金持であることを知らなかったくらいだ。

……

しかし、ミシェルの暮らしにも、転機が訪れる。

父が死の床に瀕したのである。

ミシェルは最期に父を安心させ、喜ばせるため、マルセリーヌと結婚する(石川淳訳ではマルスリイヌ)。

マルセリーヌと結婚し、父を失ったミシェルは、新婚旅行へと向かう。

マルセリーヌは孤児であり、ミシェルの父母が面倒を見てきた女性であった。つまり、ミシェルとマルセリーヌは、兄妹のように育ったのであり、そこにあったのは恋愛感情とは少し違うものであった。マルセリーヌは美しかったが、ミシェルはその美しさに、新婚旅行に行くまで気が付かなかったのだ。

ミシェルとマルセリーヌは新婚旅行に北アフリカへ行くが、チュニジアでミシェルは病気になる。ミシェルは古典学者であり、体は強くなかったのだ。病気は重く、ミシェルは瀕死になる。

死の翼がわたしを掠めたと云うことだ。大切なことは、自分の生きていることが非常に驚くべきことになたっと云うことだ。命が自分にとって思いがけない光を持つようになったと云うことだ。

その前は自分の生きていることが解からなかったのだと思った。わたしは人生についてこの溌剌たる発見をしなければならなかった。

ミシェルは、マルセリーヌの必死の看病の甲斐もあり、ついに健康を取り戻す。

マルセリーヌの献身的な看病がなければ、ミシェルは病から生還することはできなかったであろう。

ミシェルは北アフリカで、現地の少年(アラビアの少年)たちと交流を深める。

第二部

「病気」によって生の素晴らしさに目覚めたミシェルの行きつく先は、堕落であった。

新婚旅行を終え、ミシェル夫妻は、ミシェルが所有するノルマンディーの土地であるラ・モリニエールに戻り、そしてパリに行く。

パリでミシェルは、結婚前には交流の乏しかったメナルクという男に会う。そこでメナルクは、ミシェルが以前のミシェルではないことを指摘する。

君が本も持たずに好んで独り外で出かけると云うことを聞いた。

それから、君が独りでない時には、奥さんよりも子供たちの伴を好んだそうだね……

メナルクは、アラビアの少年たちからこうした情報を得ていた。

(物語では明示的に書かれているわけではないが、つまり、ミシェルが北アフリカで「生の素晴らしさ」とともに気づいたことは、同性愛者(それも男児を対象とする)の自覚なのである。ミシェルは、マルセリーヌとの性交に歓びを感じない。)

メナルクの出会いもきっかけに、ミシェルは道徳から自覚的に外れていく。

「或る《感》が、君には欠けているように思われるね、ミシェル。」

(中略)

「《道徳観》と云うやつだろう、恐らく。」とわたしはしいてほほ笑もうとしながら云った。

ミシェルは、大学での講義も行わなくなり、マルセリーヌを顧みず遊び歩く。マルセリーヌは流産して以来、これまでほど健康ではなくなっている。

そして、あろうことか自分の所有する土地ラ・モニエールで密猟を行い、自分の土地の小作人たちと軋轢を引き起こし、ついにミシェルはラ・モニエールを売りに出してしまう。

第三部

ミシェルはマルセリーヌと生活をやり直そうとする

ここに、わたしはもう一度わたしの愛の上に手を閉じ合わせようと努めた。

だが今度はマルセリーヌが病気になってしまう。しかしミシェルは、かつてマルセリーヌが自分にしてくれたような献身的な看護をすることもないのであった……。

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『背徳者』感想・考察

『背徳者』は以上のようなストーリーである。あらすじの紹介ではもちろんいくつも省略した部分があるが、単純な筋書きとしては、「ストイックだった主人公が病気から回復して生の喜びに目覚めた結果、自分の快楽だけを追求する人間に堕落し、家族も財産も失う話」である。

物語にストーリー性を重視する人にはおすすめできるタイプの本ではないが、しかしこの本は、簡単なストーリーでありながら色々と考えさせられる本である。

ミシェルという人間の是非

ところで作者ジッドは、この『背徳者』という書物に序文をつけており、序文にはこのような文章がある

わたしはこの書を以て訴状とも弁疏ともしようとは思わなかったのである。

……

要するに、わたしは何物をも証明しようと思わなかった。わたしの意はよく描くことと、おもれの描いたものをはっきりさせることに在る。

つまりジッドは、ミシェルという主人公の不道徳さを糾弾するのでもなければ、ミシェルという人間の行動を擁護するのでもないと言っているのである。

もちろん、妻を間接的に死に追いやったミシェルの行動は非難に値するものであることは間違いない。しかし、ミシェルの生き方全体を非難することは、果たして可能だろうか?

抑圧からの解放

ミシェルに同情的な立場から言えば、ミシェルの悲劇の根源は、ストイックな生き方を強いられた幼少期にあるといえるだろう。

あらすじ紹介にも記したように、かつてのミシェルのストイックさは、信心深いユグノーの母から受け継がれたものであった。

しかし、母と違ってミシェルは敬虔な信仰を持っているわけではない。つまり元からミシェルのストイックさは「軸」を持たない空虚なものだったのである。

だから、ひとたび病気からの回復という強烈な体験をしたときに、これまでのミシェルのストイックさはいとも簡単に崩壊し、快楽主義者となってしまった。

親から厳格に育てられた子どもが、大人になって自由を得たときにタガが外れてしまうことは現代でもよく見られる事象だと思うが、それもおそらく「軸」が存在しないからなのである。ある意味では『背徳者』は、子どもを厳格に育てることのデメリットを描いていると言えるかもしれない。

完全な自由は許されるのか

しかしもちろん、堕落した後のミシェルのように、完全に自由にやりたいことをやるというのにも問題がある。

意外と世の中に「自由」はないのだ。おそらく私たちの多くは、自由に生きていると思っているが、もちろん無意識に法律を犯したり周囲の人々の気分を害さないようにふるまっている。

世の中に「完全な自由」というものは存在しない、許されないものなのである。

だが、かつてのミシェルのような厳格さが理想的な人間というわけではないだろう。

やりたいことをすることができなければ、人間らしい生き方を送ることはできない。ミシェルが目覚めたような「生の喜び」は肯定されるべきである。しかし、その後のミシェルの行動は褒められたものではない。「人間らしさ」と「不道徳」は、非常に近しい関係にある。だから結局のところ平凡な感想だが、このバランスをどうするかが問題なのである。何事も中庸が肝心なのだ。

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おわりに

重ねて書くように『背徳者』は、簡単な筋書きの話ではあるが、色々と考えさせられる本である。

『背徳者』はジッドのデビュー作であり、ジッドの最も有名な作品と目されることは稀であるが、興味を持った方は読んでみてほしい。なおジッドの代表作としては『狭き門』という小説がある(本ブログでの紹介記事はこちら)が、こちらはミシェルとは対照的に、信仰にストイックに生きた女性アリサの話である。『背徳者』と『狭き門』は対をなす作品と言われるので、『背徳者』が入手しづらい場合はまず『狭き門』を読むのもおすすめである。

本記事は新潮文庫版(石川淳訳)に基づいたが、現在は文庫版は絶版で、オンデマンド出版をしているようである。

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『背徳者』は、人間の堕落を描いた小説と捉えればワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』に似ている。作者ジッドは、オスカー・ワイルドとも交流があった。

ジッドはノーベル文学賞作家。