「まあ、ジョイボイさん、きれいですこと」 「ええ、うまく仕上がったでしょう」彼は鶏肉屋がするように腿を軽くつまんでみて、「柔らかい」と言った。一方の腕を上げてそっと手首を曲げた。 「ポーズをとらせるまでに二、三時間はかかるでしょう。頸動脈の縫い合わせが見えないように首をいくぶん曲げなくてはなりませんね。頭の地はとてもうまく抜けました。」 「でも、ジョイボイさん、このご遺体に「輝かしい幼児の微笑み」を浮かべさせましたのね」
……これを読んだ方はなんの話かとお思いだろう。 上に示したのは、今回紹介するイギリスの作家イーヴリン・ウォーの『愛されたもの』 (原題『The Loved One』。他に『ご遺体』などといった邦題がある)からの一節である。 彼らが何をしているかというと、遺体処理である。それも人間の。彼らは遺体を「芸術作品」として処理する仕事についているのだ。 イーヴリン・ウォーはブラックユーモアで知られる作家でもあるが、『愛されたもの』は中でもブラック度合いが高い小説である。葬儀ビジネスという、扱いようによっては不謹慎極まりない題材を、不謹慎な方法で描いた小説であり、今回はこの作品を紹介したい。
『愛されたもの』あらすじ
はじめに『愛されたもの』のあらすじを軽く紹介する。
物語の舞台はアメリカであるが、主人公はデニス・バーローというイギリス人の詩人である。
彼は映画業界に携わるためにイギリスからアメリカへやってきたが、華々しく活躍することはできず、今は「幸せの園」というペット専用の葬儀会社でアルバイトをしつつ詩作に励む生活を送っている。 ちなみにデニスをアメリカへと誘ったのはサー・フランシス・ヒンズリーというイギリス出身の紳士であったが、彼もまた映画業界で成功を収めることができなかった。
そんな折、映画会社から解雇されたフランシスが、首つり自殺を遂げる。 同居人であったデニスはフランシスの葬儀を行う。フランシスの葬儀は「囁きの森」という高級葬儀会社で行われるが、そこでデニスは「囁きの森」の従業員であるエイミー・サナトジェナスに一目ぼれする。 エイミーは、遺体処理を行う仕事をついていたが、「囁きの森」には遺体処理に最も精通していたジョイボイという男がいた。そしてジョイボイもエイミーに好意を寄せていた(冒頭に示した異様な会話はジョイボイとエイミーのもの)。
こうして、詩人見習いのペット葬儀社アルバイトのデニスと、遺体処理技術者のジョイボイ、遺体処理技術者見習いのエイミーの三角関係が始まるのである……。
『愛されたもの』感想
『愛されたもの』は以上のような話である。 あらすじを見ていただいた方は、おそらくこの話を「くだらない話」だと思われただろうが、実際にくだらない話である。 そして登場人物も全員どうしようもない人間なのである。詩人志望のデニスは常人離れした詩オタクで社会不適合者と言わざるを得ないし、エイミーも遺体処理というものに陶酔しきっていて怪しさ全開であるし、またジョイボイも実はマザコンだったりと、登場人物のクセが強い。
『愛されたもの』のテーマとは?
しかし、『愛されたもの』が、ただの悪趣味な小説であるかというと、それは違うだろう。
イーヴリン・ウォーの作品をいくつか読んでいればわかることであるが、『愛されたもの』の作者であるウォーは「現代」というものを異様に嫌っている。 『愛されたもの』でも描かれているのは、現代の死生観への嫌悪感なのである。
ここでいう現代の死生観というのは、つまり、一つには死というものをビジネスの一部に取り込もうとする態度であり、もう一つは死というものをできる限り見えなくする態度ではないかと思う。
作中の「囁きの園」は、資本主義の権化ともいえる豪華絢爛な霊園である。 また、作中でフランシスは首つり自殺を遂げり遺体は悲惨極まりないものとなるが、その遺体はジョイボイの修復術によって元通りになり、死は不可視化される。
ウォーはこのような「現代」を、ブラックユーモア小説という形で批判したのである。 (ついでに言えば、「現代」と「伝統」の対立は、作中でジョイボイ(=アメリカ)とバーロー(=イギリス)という構図になっている。しかし、図式的には「伝統」に属するイギリス側もこの小説ではスノビズムとして批判されていると私は思う。「アメリカ対イギリス」というのも、この小説を読むうえで常に意識されるテーマである。)
現代的な小説として
少し話がそれてしまったが、こう考えてみると『愛されたもの』は現代的な小説であるといえるかもしれない。 もっとも、「死のビジネス化」は、ウォーの予測した形では起こらなかった。 ウォーは葬儀ビジネスの隆盛を予感し、葬儀に大金をかけて高度な遺体処理を施すことを皮肉った小説を書いた。しかし、現代の日本では葬儀にお金をかけなくなる傾向が強まり、葬儀会社の廃業は増えている……。
ひと昔前の小説を読むと、現代はひと昔前に思い描かれていたものとは、かなり違ったものになっていることに気づかされる。たとえばカート・ヴォネガットの名作『タイタンの妖女』などは、宇宙開発競争を批判した小説ともいえるが、現代では宇宙開発競争は必ずしも盛んではなく、少しあてはまらなくなってしまっている面もある。 『愛されたもの』が描いた「葬儀ビジネス」も、現実とはずれている。しかし、現代ではたとえば「貧困ビジネス」のような、本来ビジネスになってはいけなかったはずのものがビジネスと化している。ビジネスの浸食はウォーの懸念したとおりだった。
一方、「死の不可視化」は、確実に現代の日本でも起きている。 セレモニーホールの建設に地元住民が反対したりする例は枚挙にいとまがないし、現代の私たちは「遺体」というものをある種異様に恐怖している面があるだろう。 正直に書けば私もそう思ってしまうのは否定できないのだが、命があったときには気味悪がれることのなかった人間の身体が、命が亡くなった瞬間に気味が悪いものになってしまうのだ。 結局これは、私たちが「死」に向き合うことができていないからだろう。死はできる限り避けたいものである。しかし死は確実にやってくる。
私たちのすべきことは、死を不可視化することなのだろうか? ーーそれは違うのではないか? ということをウォーは伝えたかったのではないだろうか。
おわりに
ところで(書いている内容の薄さはさておき)たぶんこのブログは日本語の個人ブログの中では、もっともイーヴリン・ウォー作品を紹介しているブログの一つになったのではないかと思う。下にもいくつかウォー作品の紹介記事があるので、興味がある方はどれか手に取っていただきたい。 ウォーの作品に通底するのは、現代への嫌悪である。もちろんウォーには賛成できないところも多いが、しかし現代に愛想が尽きかけたときに読むウォーこそ身体に沁みるものはない。
『愛されたもの』の原題は『The Loved One』。原題を直訳したものが「愛されたもの」であるが、作中では「Loved One」というのは、「愛されたもの=死者がこの世に残した遺体」という意味で使われている。『The Loved One』は意訳すれば『ご遺体』であり、光文社古典新訳文庫版では『ご遺体』という訳で出されている。 光文社古典新訳文庫版の方が読みやすいのは確かだが、その分原著のわかりにくいニュアンス(主人公の詩オタクぶりなど)は省かれているので、どちらが良いかは好み次第だと思う。
世の中には多く「傑作集」を銘打っている本があり、時たま納得できないものもあるが、イーヴリン・ウォーの『イーヴリン・ウォー傑作短篇集』(白水社エクス・リブリス・クラシックス)は、個人的には文句なしの「傑作短編集」だ。 このブログでは、こ[…]
コロナ禍の現在では、友人と顔を合わせて語らい、共に旅行をした日々でさえ、もはやノスタルジーの対象となってしまった。 そんなノスタルジックな気分に浸ると思い出すのは、イギリスの作家イーヴリン・ウォーの『回想のブライズヘッド』という小説だ。 […]
イーヴリン・ウォーという小説家は、日本ではそこまで有名ではないかもしれないが、イギリスでは『情事の終り』などで知られるグレアム・グリーンと双璧とされるカトリック作家であるという。 過去にこのブログでも紹介したウォーの代表作『回想のブライズ[…]