私は寝る前に本を読むのだが、私の「寝る前に読む本」シリーズで最高に素晴らしかったのが、このミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』である。
正直、この本は恋愛小説としてはつまらないかもしれない。だから集英社文庫の帯にある「20世紀恋愛小説の最高傑作」という謳い文句には首肯しかねる。
だが、私はこの本は恋愛小説という枠組みでは語ることのできない魅力を持った傑作だと思うのである。
そう思う理由を、ここでは書いていきたい。
「存在の耐えられない軽さ」という哲学の奥深さ
『存在の耐えられない軽さ』というタイトルが途方もなくかっこいい、というのは、この本の第一に言える感想である。
そして、この本のテーマはタイトルの通り「存在の耐えられない軽さ」なのである。
では、「存在の耐えられない軽さ」の意味とは何なのか?――正直なところ、私も2回この本は読んだが完全には理解できていないだろう。だが、このテーマについて少し考えるところを書いていきたい。
ニーチェの「永劫回帰」
『存在の耐えられない軽さ』は、次のような書き出しで始まる。
永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。われわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しが際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて!
いったいこの狂った神話は何をいおうとしているのであろうか?
(中略)
われわれの人生の一瞬一瞬が限りなく繰り返されるのであれば、われわれは十字架の上のキリストのように永遠というものにくぎ付けにされていることになる。このような想像は恐ろしい。
永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。
もちろんニーチェというのは、あの『ツァラトゥストラはこう語った』を書いた哲学者である。
「永劫回帰」についての詳しくはニーチェの著作かニーチェに関する評論を読んでいただきたいが、要するに、「私たちの人生は永遠に繰り返す」 という思想である。
――つまり、私たちは一度死んでも生まれ変わり、同じ人生を永遠に繰り返すのである。
そうとすると、私たちの「人生」は、一つ一つの行動が今後の何百何万もの「人生」を規定することになり、その存在は耐えられないほど「重い」のである。
――あるいは、私たちの人生が何百何万もの同じ人生の中のひとつであったら、その存在は耐えられないほど軽いのである。
人生の重さと軽さ
ここまで永劫回帰について語ってきたことと筋が通らなくなってしまうのだが、実は私は「永劫回帰」はテーマの一つであっても、この作品で書かれた「軽さ」「重さ」というものは全てが「永劫回帰」で解釈できるものはないと思っている。
クンデラは「永劫回帰」を例に、「人生の重荷」というものについて述べているのである。
「重荷」や「重さ」というのは、たとえばプレッシャーである。「運命」や「使命」など、人生というものにのしかかってくるものなのである。
「こう生きなければいけない」「こうしたほうがよりよい人生を送れる」……こんなプレッシャーも、「重さ」である。そして永劫回帰を例にした「重さ」としては、「この行動が人生の全てを決めるかもしれない」というのがある。
――しかし、そのような「重さ」というものは、本当に人生の中で大事なのだろうか?
また、逆に人生の「軽さ」とは何なのだろうか?
――この本は、そんな人生の「重さ」と「軽さ」について考えた本である。
クンデラの哲学
以上に紹介したように、この作品は非常に哲学的なのである。
この作品の主人公はトマーシュという外科医の男で、彼がテレザという妻と、サビナを代表とした愛人たちの間で繰り広げる物語というのが作品の大枠のあらすじなのだが(こう書くと三角関係の話に聞こえるが、それぞれの登場人物に物語があるのでそういう話ではない)、語り手(≒作者のクンデラ)が哲学的な考察を合間合間に挟まれる。
――そして、その表現の一つ一つが途方もなくかっこいいのである。「存在の耐えられない軽さ」というタイトルに象徴される言語センスの高尚さは、小説全編を通じて遺憾なく発揮されている。
だがそれゆえに、ロマンチックな「恋愛小説」が読みたいなら、この本はお薦めできない。
この本の魅力は恋愛の展開にあるのではなく、一見平凡に見えるような(もちろん平凡というわけではないのだが、ものすごくドラマティックとは言えない)恋愛、そして主人公たちの生き方を哲学的に捉えた作品である。
「人生とは何なのか?」「愛とは何なのか?」というのが、この作品の主題なのである。
チェコ・「プラハの春」という舞台の地域性と時代性
この作品を読むためにニーチェの「永劫回帰」がわかっておいた方が面白いというのは先ほど述べたとおりだが、もう一つ、知っておくとこの作品をもっと楽しめるものがある。
それがこの作品の舞台であるチェコという国と「プラハの春」という事件である。
海外の文学を読むということ
私が好んで海外の小説を読む理由は、知らない世界・知らない価値観を知ることができるからである。
現代日本を舞台にした小説には、自分を投影できる面白さがある。だが反対に、海外の小説を読めば、自分を全く違う世界に連れていくことができるのだ。
要するに、海外の文学は一つのファンタジーである。
――しかし、作者がゼロから作ったファンタジーの世界と違って、海外を舞台にした小説の場合は「世界観の説明」は十分にされない。
たとえばフランス文学を読むのだったら、「人妻と男子学生が不倫するのは普通である」という世界観を学んでおく必要がある。
それと同じように、『存在の耐えられない軽さ』を読むなら、共産主義だったチェコという国と、「プラハの春」という事件を押さえておかないと、世界観がわからなくなってしまう。
共産主義国家チェコと「プラハの春」
言うまでもなくこの作品の舞台である1960~70年代のチェコは共産主義国家であり、ソ連の影響下に置かれていた。共産主義国家と言うと現代でも自由のない監視社会を思い浮かべるかもしれないが、この時代でもそれは同じである。
だが、1968年4月にドプチェク政権が樹立すると、「人間の顔をした共産主義」を標榜して自由主義へと舵を切る。街には西欧風の文化も華ひらき始めた。
これが「プラハの春」である。
――しかし、ソ連はこの自由主義化の動きを良しとしない。そして1968年8月20日、ソ連はWTO(ワルシャワ条約機構)軍を率いて、チェコを制圧した。
そして、チェコはもとのような共産主義社会に逆戻りするのである。——一度チェコという国に戻ったら、二度と国外に出ることができないような国になるのである。
「プラハの春」とその終焉の概略は以上の通りで、これはまさに『存在の耐えられない軽さ』のモチーフとなっている。
作者のクンデラ自身も、自由主義化の動きである「プラハの春」に賛成した知識人であり、それゆえソ連の制圧後には創作活動の場を失い、のちにフランスへ亡命したのである。
この作品は、「プラハの春」の当事者による作品で、歴史を知ることができる作品としても非常に優れている。
知らない世界の、知らない文化。今の私たちと全く違った常識を知ることができる。そんな海外文学の醍醐味を存分に味わえるのがこの作品なのである。
――これこそが、『存在の耐えられない軽さ』が不朽の名作である理由である。
おわりに
このブログに感想を書いていて思うのは、やはり自分はこの本を消化しきれていないという反省である。
しかし、それは逆に、この本は何度でも読む価値がある本であるという意味でもある。
人生に息苦しさを感じた時、人生に退屈した時、人生の意味を見失った時、この本は色々な意味を持ってくるのではないかと思う。
終生読み返したいと、本気で思える本である。
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