映画「パラサイト」を今更ながら見た。伏線回収が巧みで、なおかつ展開の読めない点。韓国映画ならではの舞台設定など、つくりのうまさに感嘆した映画であった。
この映画について通り一遍の考察はすでにしつくされているだろうから、自分なりに何を考えたかを記そうと思う。(ネタバレあります)
一応、この映画のあらすじを簡単に述べる。
主人公キム・ギウは、貧乏な浪人生である。ところが、友人のつてで金持ちのパク社長一家の娘の家庭教師のアルバイトを紹介される。
そこで、ギウはお人よしのパク社長の妻を丸め込み、妹のギジョンをパク社長の息子の家庭教師として紹介する。ギウとギジョンはさらに策略を巡らせ、パク社長の運転手として一家の父・ギテクを運転手に、母・チュンスクを家政婦として送り込む。
キム一家は、パク一家に「寄生」することに成功する。しかし、悪事がそう続くわけはないのである…
「節度」を持てなかった理由は何か
主人公たちが破滅に向かっていったのは、「節度」を持たなかったことにあるのではないか、と私は考えた。
家族全員を一つの家に送り込むなんて、現実で行うなら大胆すぎる作戦だろう。(この物語がフィクションであるといったら元も子もないが)
それに、主人たちのいない家で酒盛りをするというのも、あまりにリスクの高すぎる行為だろう。普通だったらそのようなことはしないだろう。「節度」があれば。
この「節度のなさ」というのは、キム一家の一つのモチーフなのではないかと思う。
キム一家は、節度がないのである。
パク社長はギテクのことを基本的には「度を越さない」と評価しているが、「匂い」
は「度を越している」と評価する。ギテクは「節度がある」(パク社長の領域に入っていかない)ようにふるまっているが、実際には「節度がない」ことを隠しきれていないのである。ここでの「節度がない」とは、キム一家がパク社長一家の領域を侵食して言っているということのメタファーである。
他にも、ギウは高校生であるダヘと交際する。しかし、裕福な側の人間であるミニョク(ギウに家庭教師を紹介した友人)は、ダヘが高校を卒業するまで交際を待とうとしている。ここにも、キム一家の節度のなさというものが表れている。
だが、彼らはそうもしないと生きていけないのである。
「半地下」に暮らすことに妥協してしまった人間もいる。そのような人間は、ある意味で節度を持っているといえるかもしれない。
だが、キム一家は「半地下」に暮らすことに妥協している人種ではない。上昇の好機を伺っているような人間である。
しかし、実際に上昇のチャンスをつかむためには、「節度を持つ」ということは捨てなければならないのが、彼らの実状なのではないか。この映画の序盤はそれを暗示している。
とはいえ、「節度のなさ」は、破滅を呼ぶ諸刃の剣でもある。
「パラサイト」(=寄生虫)の題名に込められた意味
しかし、いくらキム一家がパク社長一家に「寄生」したところで、パク社長一家に経済的な害があったわけではない。(もちろん、最終的には悲劇に巻き込まれてしまったのだが…)
この映画の題「パラサイト」を見た時にストーリーとしいて私が想像したのは、「貧乏一家が裕福な一家の富を食い尽くしてしまい共倒れになる」というストーリーだった。
しかしストーリーはそうではない。
ある意味でここにも、私はこの映画の描いている格差の大きさを感じた。
この映画は、「寄生虫と宿主の争い」ではなく、「寄生虫同士の潰しあい」であった。
同じ境遇の人々が潰しあう。潰しあわないと生きていけない。そのような悲運を、この映画は描いている。
そのような弱い立場に立っている主人公たちこそが「寄生虫」なのであり、この映画は「寄生虫」たちの物語なのである。
格差を描くことで、描かれたものとは
ここまで述べたように、この映画は韓国経済の格差を描いた作品である。
しかし、「格差を伝える」ことはこの映画の目的ではない。
ではこの映画で監督が描きたかったものは何なのか?
この映画が優れている理由は何なのか?
この問いについて考えてみたい。
格差というのは究極のテーマであるが、「格差」によって人はどのように変わってしまうのかというのがこの映画のテーマなのではないかと思う。
最初に述べた「節度」もその一つである。キム一家は、「節度」を失っている。
だが、パク社長の側にも失っているものはある。
これを言うならば、月並みだが「思いやり」になろうか。パク社長は、最後にギテクによって衝動的に殺される。
この理由を考えるといろいろな論点が浮かぶが、第一には「ギジョンの命をなんとも思わなかったパク社長の行動がギテクを衝動に走らせた」という解釈が普通だろう。
結局のところ、パク社長は使用人のことを使用人以上に思っていない。それが悪いことではないかもしれない。ただ、このご時世で使用人を一たび解雇すれば、その使用人が路頭に迷うことはパク社長なら容易に想像がつくだろう。にもかかわらず、おそらくパク社長は、解雇した使用人に対して仕事の斡旋などは行っていない。
パク社長は使用人のことを、実際には対等な人間として見ていないのである。このような人間観が、最後に命取りになってしまった。
敗北者は節度を、成功者は思いやりを、というのが私なりのこの映画からの教訓である。
▼関連記事