昨日、相模原障害者殺傷事件の植松被告に死刑判決が下った。
色々思うところがあったのだが、しっかりとこの事件についての論評を読むことも大切なのではないかと考え、今更ながら「現代思想 2016年10月号 緊急特集 相模原障害者殺傷事件」を読んだ。ここでは、これについての感想を記す。
論考寄稿者一覧
最首悟
上野千鶴子
斎藤環
大澤真幸
森達也
木村草太
尾上浩二
立岩真也
市野川容孝
杉田俊介
熊谷晋一郎
他16名
(敬称略。以下についても同様)
各論
特に印象に残った小論について、抜粋し感想を記す。
森達也「『事件』の特異性と普遍性をめぐって」
事件の「特異性」と「普遍性」に関して。「特異性」ばかりに目が向けられがちであったことは事実であり、それを見抜いているのは慧眼というほかない。
だが、事件の「普遍性」については、ここでは多く述べられてはいない。森氏も「冷静で継続的な議論」を呼び掛けているように、「普遍性」についての議論は緒に就いたばかりであったのだろうが、少しここは物足りなかった。
この問題は今も考えていくる必要がある。
上野千鶴子「障害と高齢の狭間から」
冒頭で述べられている、高齢者施設での講演で、この相模原の事件について触れても受けが悪かったと書かれているのは非常に興味深い。彼ら高齢者は、自分を障害者と一緒にされたくないのである。
こんな話も紹介されていて、戦慄した。
ケアに関わる講演会で、こんな質問を受けたことがある。健康で溌剌とした高齢者が、大きな声で「80歳以上の重度介護を必要とする老人を処分することはできないか」と発言した。
上野氏の寄稿文の主題の一つは、誰もが高齢者・要介護者になりうる高齢者社会の中で、そのような立場に自分が置かれたときの想像力をいかに働かせることができるか、ということにある。
自分自身がなりうる「高齢者」に対しての「高齢者差別」をしてはいけない。そして、自分が高齢者になった時に「自己差別」をしてはいけないのである。
余談だが、直前に森氏が信憑性に足らないとして批判した「ヒトラーはユダヤ人の血を引いていたからこそ、ユダヤ人虐殺を指揮した」という俗説そのものを、上野氏はレトリックとして用いているのは多様な寄稿者の方向性を感じられて面白かった。
なお私個人としては、上野氏がこの説を断定してことには賛同しない。概ねの意見についてはいいと思っているだけに、不確実性のあることには留保を加える方がいいのではと思ってしまったのが残念である。
大澤真幸「この不安をどうしたら取り除くことができるのか」
個人的には、この大澤氏の論稿が白眉だと思う。
大澤氏は、相模原障害者殺傷事件について、1997年のいわゆる酒鬼薔薇事件と類似した「不安」があるとする。
酒鬼薔薇事件が社会に不安を与えた理由は、その猟奇性と少年犯罪という衝撃もあっただろうが、一つにはそれが「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを提示するような事件だったからである。実は、この問題に対して説得的な理由を示すことが難しいのは、多くの人が胸の奥で知っていることだろう。
今回の事件も、同様の不安を与えた事件である。植松被告は、当時、「障害者を殺すこと」が善であるという義務感にかられ、犯行に及んだ。
カントは、『たんなる理性の限界内の宗教』の中で、「悪」を3つに分類した。
いわく、
- 人間の意志の弱さからくる悪(eg.殺人は悪だとわかっているのに、意志の弱さゆえ、私的な怨恨に負けて殺人を犯す)
- 倫理的な義務の履行を装ってはいるが、それが私的な欲望を隠すための偽装になっている場合(eg.継母による「しつけ」と称したいじめなど)
- 義務への間隔を一切書いているために生じる悪(eg.「ルールを守っていれば何をしてもいい」として悪を犯す場合など。この場合、ルールを外的障害としてしか見做しておらず、内的な善なる義務感は存在しない)
この3つである。
だが、植松被告の犯行は、以上の3つの悪の類型のどれにも属さない。
というのも、植松被告は自分の感じた「義務」を履行しただけだからである。
通例、「義務だからそうする」という行為は、カントの分類では「善」に属する。
このように、植松被告の行為は「悪」であるのに、その行為に説得的に反論することに難しさを感じてしまうのである。これが、この事件の持つ、酒鬼薔薇事件と同質の「不安」である。
植松被告の論理を崩すためには、我々が普段「善」であると思っていることを疑わなければならないのである。
普段我々を支配している、「人に迷惑をかけてはいけない」という論理がある。植松被告の供述する動機は、この論理を敷衍した先にあることを、部分的には認めざるを得ない。
とすると、最終的にあく悪魔のような植松被告の論理を生み出してしまう、「人に迷惑をかけてはいけない」という論理こそ、疑う必要が出てくるのだ。
大澤氏は、次のような例を引く。
ドラマ「男たちの旅路」の「車輪の一歩」という作品の中で、次のようなエピソードがある。普段「他人に迷惑をかけないように」殆ど家から出ない車椅子の少女が、ある時思い切って外出するが、段差で進めなくなってしまう。
ここで、少女は思い切って大声で叫ぶ。
「誰か、私を上まで上げてください」
大澤氏は、このドラマが伝えたかった「他人に迷惑をかけたっていいではないか」という意識こそが必要であると説く。
このような姿勢の方が、人間賛歌的である。
そして、そのような姿勢こそが、我々を相模原事件の「不安」から解放してくれるのである。
木村草太「『個人の尊重』を定着させるために」
憲法学者である木村氏は、憲法的な観点から、次のように述べている。
相模原の事件は、私たちの社会が「個人の尊重」という憲法的価値を定着させることに失敗している可能性を示している。
例えば、「障害者は役に立たない」という論理に対して、障害者にも経済活動や対人関係的に価値がある、と反駁するのは正しい反駁の仕方とは言えない。相手の土俵に立ってはいけないのである。
善意の人のそのような反駁にも、優生思想の影響が見え隠れしている。
ここに、「すべて国民は個人として尊重される」(13条)とした、憲法の規定する「人間の尊厳」が定着していないことが示されているのである。
最後に木村氏は、相手の粗野な意見にも「お前は間違っている」と頭ごなしに説教せず、受け止めて主張に向き合う機会の確保の重要性を説く。
ひょっとしたら、ポリティカリーコレクトの側こそが、「頭ごなしのお説教」への依存から解放される必要があるのかもしれない。
という結びには、納得させられた。
星加良司「『言葉に詰まる自分』と向き合うための初めの一歩として」
私が受けた印象は、この事件の被害者は徹底的に「他者」として扱われていたということだった。
確かにその通りだったかもしれない。
市野川容孝「反ニーチェ」
小論の表題通り、ニーチェ批判である。
ニーチェ「悦ばしき知識」には、次のような一節があるという。
(ある男が、聖者に障害児を連れてきた)
「殺すのだ」、と聖者は怖ろしい声で叫んだ。
(中略)
多くの人は、聖者が残忍なことを勧めたといって、彼を咎めた。とうのも、聖者が子を殺すように勧めたからである。
「だが、子供を生かしておく方が、もっと残忍なことではないか?」と聖者は言った。
市野川氏は、このような切り口からニーチェを批判する。ニーチェの礼賛のもとに成り立ってきた近代社会に対する、疑問が投げかけられる。
ニーチェの思想には私自身あまり通暁していないが、ニーチェを読む際にはこの小論に留意しながら読んでいきたいと思った。
ニーチェ批判は市野川氏の著書「社会 (思考のフロンティア)」に詳しいというので、そちらも参照されたい。
荒井裕樹「『殺意』の底を見据えること」
憎悪の背後には、往々にして「正義」を背負った大きな主語がある。「日本(人)」「国民」「市民」「社会(人)」等々といった大きな主語で、小さな相手と対峙しようとする。
事件の容疑者が衆議院議長に宛てたという手紙も、「日本国」「世界」「全人類」に同化した容疑者が、「障害者」と対峙するという形になっている。
自分が無媒介に大きな主語に溶け込む時、その言動が誰かの生命や尊厳を損ないかねないなどという想像力は働かなくなる。
深田耕一郎「介護者は『生気の欠けた瞳』をしているのか」
ケアとはかかわりを通して、「あなたはどのような人間か」と常に問われる実践である。自立生活運動はそのことを自覚的に追求してきた。私は以前、自立生活にかかわる介護者たちにインタビューしたことがある。そこで介護者の人たちが語ったことは、「援助しよう援助しよう」という一方的な思い込みから、「援助はむしろ自制した方がいい」という意識への変容である。
これは、私がかつてボランティアで障害を持った児童の世話をした際にも聞いたことと同じであり、深く同感した。
渡邉琢「障害者地域自立支援の現場から思うこと」
本当に彼らは施設入居しかありえないほど、重度の障害者だったのだろうか。地域での支援体制さえ整っていれば、施設に入らなくてもよかった方々なのではないか。
この事件については、本当はそこまでさかのぼって検証されてほしいと思う。
感想
相模原の事件は、いくつも論点がある。事件が風化しつつある中で、一度落ち着いてこの雑誌を読むことができたのには意義があった。
多くの論点の中には、次とような問題が含まれる。
一つには、多くの方も言及していたが、出生前診断の問題である。
出生前診断についても、この事件以上に難しい問題が提起される。出生前診断こそ、如実な優生思想のあらわれであるといえるからだ。
もう一つは、相模原の事件がいくつもの社会的矛盾を明らかにしたことにある。
この記事で一番注力して取り上げた大澤真幸氏の小論は、社会一般に認められた価値観の矛盾を糺す。
また、市野川氏は次のように言う。
死刑という制度には、「生きるに値しない生命がある」という考えに直接の根拠があるわけではないとしても、その是認の上に成り立っていると私は思う。だとすれば、彼を死刑にすることで、私たちは彼の考えの正しさを、部分的にではあれ、証明することになるのではないか。
私たちは、結局のところ植松被告に踊らされてしまっているのである。今の社会では、植松被告の言動を、説得力を持って完全に否定することは難しい。
そこには、現代社会の矛盾がある。
相模原の事件は、現代社会の病理と矛盾を浮き彫りにしたといえるのではないだろうか。
▼今回の題材
▼関連書籍
- 作者:大澤 真幸
- 発売日: 2019/03/19
- メディア: 新書