『まっぷたつの子爵』あらすじ・考察|カルヴィーノの善悪では終わらない寓話

『まっぷたつの子爵』あらすじ・考察|カルヴィーノの善悪では終わらない寓話
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イタロ・カルヴィーノは「文学の魔術師」と呼ばれたイタリアの国民的作家である。カルヴィーノはパルチザンとして活動した体験をもとに書いた長篇(『くもの巣の小道』(1947年))でデビューしたが、初期の作品として有名なのは「我々の祖先」三部作と呼ばれる、中世を舞台にした幻想的なおとぎ話のような三つの小説である。

「我々の祖先」という奇妙な名前の三部作は、『まっぷたつの子爵』(1952年)、『木のぼり男爵』(1957年)、『不在の騎士』(1959年)という3つの小説から構成される。どの作品もタイトルからなんとなく予想ができるだろうが、『まっぷたつの子爵』はまっぷたつになった子爵の物語である。三部作はすべて独立しているが、『まっぷたつの子爵』は最初に書かれた作品で、そして最も短い小説でもあり、カルヴィーノの入門としてぜひおすすめしたい小説である。

子ども向けの童話のような小説でありながら、ポストモダンを代表する世界的作家が書いた海外文学の入門としても楽しめるこの作品について、今回は紹介していきたい。

『まっぷたつの子爵』あらすじ・概要

はじめに『まっぷたつの子爵』という小説について、あらすじと概要を紹介する。

『まっぷたつの子爵』あらすじ

物語の語り手は、テッラルバの子爵メダルドの甥にあたる少年である。

17世紀、キリスト教徒とトルコ人の戦争に出征したメダルドは、最初の戦闘でトルコ軍の砲弾を浴び、体を縦にまっぷたつに引き裂かれてしまう。奇跡的に右半身だけが助かり、医師たちに傷を縫い合わされたメダルドは、半身となって故郷テッラルバへ帰還する。

しかし、帰ってきたのは「悪」の半身だった。

彼の通った後には、まっぷたつに切り裂かれた果物や作物、動物たちが散らばる。どんなに軽い罪でも領民を絞首刑に処し、家々に火を放つ。これが「ならず者」と呼ばれる悪半身である。

だがある日、もう一方の半身、「良いひと」と呼ばれる善半身も帰還する。こちらは病人を見舞い、貧者を助け、善行の限りを尽くして回る。しかし、「良いひと」は次第に、村人たちの享楽を咎めたり、商売に余計な口を出したりして、領地の人々からの尊敬を失っていく。やがて「ならず者」と「良いひと」は、どちらも森の娘パメーラを見初め、パメーラをめぐって争うことになる。はたして、まっぷたつの子爵の運命は……。

カルヴィーノと「我々の祖先」三部作

ここで少し脱線するが、『まっぷたつの子爵』という作品と、「我々の祖先」三部作について補足したい。

あらすじを一見するだけでは『まっぷたつの子爵』は、単なるおとぎ話に思える。それは誤りではなく、もしもカルヴィーノがこの小説しか出していなかったら、『まっぷたつの子爵』の後年の評価は、すぐれた児童文学の一つという評価に留まっていたのではないかとも思う。

だがカルヴィーノは、当時のイタリアが抱えていた問題を描き出すために、おとぎ話という手法を用いたと書いてている。第二次世界大戦前後のイタリアは、ファシズムと反ファシズム、資本主義と社会主義、伝統と近代化の間で大きく揺れていた。カルヴィーノが描いた「まっぷたつになった人間」とは、単なる寓話的な怪物ではなく、戦後社会そのものが抱えた分裂の象徴でもあったのである。

カルヴィーノは三部作の経緯を自ら解説したエッセー「一九六〇年の覚書き」を残しており(白水Uブックスの『まっぷたつの子爵』に収録されている)、この小説が単なる思いつきの童話ではなく、戦後イタリアの現実を描き出すためにおとぎ話という形式が選ばれたことがうかがえる。

 二等分され、分断され、不完全で、自分自身に敵対するのが現代の人間だ。マルクスが言う「疎外された人間」、フロイトの言う「抑圧された人間」だ。古の調和の状態は失われ、新たな統合が希求される。それが、イデオロギーやモラルとして、私が物語に意識的に与えたかった核心なのだ。

カルヴィーノ「一九六〇年の覚書き」(『まっぷたつの子爵』白水Uブックス収録、村松真理子訳)156p

そして、カルヴィーノは「私は、現代人の祖先の系図として読んでもらえることを望んでいる」とエッセーを締める。だからこの三部作は「我々の祖先」と呼ばれるのだ。

『まっぷたつの子爵』感想・考察

話を戻し、『まっぷたつの子爵』という小説について、改めてその内容を考察していきたい。

善も悪も完璧ではない

この小説を読み終えてまず浮かぶのは、「善と悪のどちらも行き過ぎると問題だ」という感想だろう。純粋な悪として帰還した「ならず者」が領民を苦しめるのは当然として、純粋な善として現れた「良いひと」もまた、人々を疲弊させていく。「ならず者」が恐怖を生んだように、「良いひと」の利他主義は人々に居心地の悪さをもたらす。善行を押し付けられる側にとっては、それもまた一種の圧迫なのである。

ここで「善も悪も完璧ではない」という結論に落ち着くこともできる。だが、それだけでは少し物足りない。先述の通り、カルヴィーノはこの小説のテーマとして「二等分され、分断され、不完全で、自分自身に敵対するのが現代の人間だ」ということを書き残している。この「二等分」「分断」「不完全」こそが、この小説のより大きなテーマだろう。

半分・不完全であるということ

この小説の一つの核心は、善悪の対比そのものよりも、むしろ「不完全であること」と「半分であること」をめぐる逆説にある。

「ならず者」は、甥である語り手の少年に向かって、こう語る。

「もしいつか、お前がお前自身の半分になることがあったならーー私はそうなるよう、お前のために祈るがーー、お前も、完全な頭の凡庸な知性を超え、物事を理解するだろう。そのとき、お前自身の世界の半分と世界の半分とをお前は失うが、残った半分は限りなく深く、得難いものなのだ。……美も知性も正義も、切り刻まれたもののうちにしか存在していないのだから」

カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』(白水Uブックス、村松真理子訳)69p

この逆説的な認識論は、作中で最も鋭く印象に残る台詞である。悪の体現者が「完全であることは無知だ」と述べ、分裂を一種の覚醒として語る。注目すべきは、これとほぼ対をなす発言を、善半身である「良いひと」もしているということである。「良いひと」は、自分がまっぷたつになったことで、この世のすべての存在が抱える不完全さや傷に気づくことができた、という意味のことを語る。

悪の半身は、分裂は鋭い認識をもたらすと言い、善の半身は、分裂は他者の傷への共感をもたらすと言う。立場は正反対なのに、どちらも「まっぷたつになって初めて見えたものがある」と証言している。この場面でカルヴィーノは、人間はみな不完全であり、そして時にはその「不完全さこそが世界を深く見させる」ということを描いているのではないかと思う。

二つの半身は、それぞれ「半分であること」を肯定しており、実は一切統合を望んでいない。しかしここで思い出したいのは、カルヴィーノ自身が「新たな統合が希求される」ことを物語の核心だと書いていた点である。当事者である「ならず者」「良いひと」たちが統合を望まないのなら、作中で「統合の希求」はいったい誰が担っているのか?

「善悪」「分裂」を超克するセバスティアーナ

その答えにあたる「分裂」を超越する人物が一人いる。それがメダルド家に長く仕えてきた年老いた乳母、セバスティアーナである。ただし彼女は、分裂した二つを「統合しようと希求する」のではなく、そもそも最初から分裂を認めていないのだ。

帰還した「ならず者」のメダルドは、セバスティアーナの命までは奪わないが、彼女にらい病(ハンセン病)という濡れ衣を着せ、患者たちの集落へと追放してしまう。

「ならず者」が早い段階で標的にしたのが、ほかでもないセバスティアーナだったのは、彼女がメダルドの乳母であり、善でも悪でもない「分裂以前のメダルド」を幼いころから記憶している人物であるからだろう。つまり「まっぷたつになる前の子爵」を誰よりも知る存在が、真っ先に排除されるのだ。

こうしてセバスティアーナは追放されるが、面白いのは、セバスティアーナは善半身に対しても、「ならず者」と同様に接することである。セバスティアーナは「『良いひと』の善良さに全然心を動かされなかった」どころか、「良いひと」に「ならず者」の罪を責める

「どうして、ビギン婆さんの雄鶏の頭をあなたは切り落としたの? ビギンは気の毒に、それ一羽しかいなかったんだよ。もう大きいんだから。そういうことはもういい加減にしないと……」

「乳母よ、どうしてそんなことを私に言うのだ? 私じゃなかったことは、わかっているだろう」

「ああ、こりゃなんという言い草だろう! じゃあ、だれだったのか、聞いてみようじゃないか」

「私だ、つまり……」

「ほら、ごらん!」

「いや、ここにいる方の私ではなくて……」

「ああ、あなたは私が年をとったからって、呆けたとでもお思いか?」

イタロ・カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』(村松真理子訳、白水Uブックス)127~128ページ

この場面で、セバスティアーナは呆けているわけではないだろう。物語序盤では最も鋭い観察眼を有しているのは、セバスティアーナである。セバスティアーナは半身になったメダルドを見るや否や「なんと邪になられたことか」(26ページ)と驚き、そして真っ先に「帰ってきたメダルドは、邪な方の半分だけらしいね」(34ページ)と、「ならず者」の本質を見抜いているのである。

もちろん先ほど引用したシーンを、物語中の時間の経過でセバスティアーナが呆けたという描写であると読むことは不可能ではないだろうが、私にはセバスティアーナこそが本質を見抜いているシーンに思える。セバスティアーナだけが、「ならず者」も「良いひと」もメダルドであると見抜いているのだ。

私はここに、「善悪」や「分裂」の超克を見出したい

セバスティアーナにとって、「ならず者」も「良いひと」も、自分が乳をやり育てた「メダルド」という一人の人間にほかならない。だから彼女は、目の前の善半身に向かって、悪半身の罪を平然と責めることができる。善と悪への分裂という物語の大前提が、セバスティアーナの前だけでは効力を失っているのである。

テッラルバの人々が二つの半身に翻弄される中で、セバスティアーナだけは最初から、分裂などなかったかのようにメダルドと接し続ける。この物語の核心が「失われた調和」に代わる「新たな統合の希求」だとすれば、セバスティアーナはその統合を、誰よりも先に成し遂げていた人物だといえるのではないだろうか。

おわりに

ここまで紹介してきたように『まっぷたつの子爵』という小説は、一読すれば奇想天外なおとぎ話として十分に楽しめる小説でありながら、読み返すほどに問いが深まる作品である。

ところで、『まっぷたつの子爵』は、個人的にはラストシーンも好きである。パメーラをめぐる二つの半身の争いがどう決着するのかはぜひ本編で確かめてほしいのだが、物語は最後、語り手の「ぼく」のこのような独白で締めくくられる。

 しかし、ぼくときたら(中略)ますます孤独でさびしく感じていた。ひとはときに、自分に何かが足りないと感じるが、それはただ若さにすぎない。
 ぼくはもう青春の入り口に来ていたが、まだ大木の根元に隠れては、いろんなおとぎ話を作ったりしていた。

イタロ・カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』(村松真理子訳、白水Uブックス)145~146ページ

このラストシーンを読むと、もしかすると『まっぷたつの子爵』という物語は、「ぼく」が創作した「おとぎ話」なのかもしれないと思う。

「自分に何かが足りない」と感じる少年が、大木の根元でおとぎ話を作っている。そう考えると、この物語自体が、不完全さを抱えた人間が不完全さを描くために紡いだ「おとぎ話」だという入れ子の構造が浮かび上がってくる。もちろんこれは飛躍した解釈なのだが、ちなみに入れ子構造はまさにカルヴィーノが得意としたもので、『冬の夜ひとりの旅人が』はメタフィクションの金字塔的な文学である。このラストシーンの余韻の深さも、カルヴィーノが「文学の魔術師」と呼ばれる所以ではないかと思う。

『まっぷたつの子爵』の本編は150ページに満たず、数時間もあれば読み通せる本である。海外文学の入門としても、カルヴィーノの入門としても、まず手に取るのにふさわしい一冊である。そして面白いと感じた方は、ぜひ「我々の祖先」三部作の残る二作である『木のぼり男爵』『不在の騎士』、あるいはカルヴィーノの後年の代表作である『見えない都市』『冬の夜ひとりの旅人が』も読んでみてほしい。

▼岩波文庫からも出ておりこちらの方が安価だが、『まっぷたつの子爵』に関しては、三部作すべてが出ていて「一九六〇年の覚書き」が収録されている白水Uブックスをお薦めしたい。

▼『まっぷたつの子爵』は海外文学ランキングでも高く評価されている

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