
マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』(1876年)といえば、ミシシッピ川沿いの田舎町で少年たちが冒険を繰り広げる、アメリカ文学を代表する児童文学の古典である。
しかし、この小説が通常の児童文学以上に高い評価を得ているのは、この作品が単なる少年の冒険譚ではなく、少年の視点を通して、当時のアメリカ南部の社会の偽善や矛盾を巧みに風刺しているからである。大人になって改めてこの作品を読み返すと、確かにこの小説が世代を超えて愛される理由がわかる。
マーク・トウェインことサミュエル・ラングホーン・クレメンズは1835年、ミズーリ州に生まれた。『トム・ソーヤーの冒険』の舞台であるセント・ピーターズバーグは、トウェインが少年時代を過ごしたハニバルという町をモデルにしている。つまりこの小説は、トウェイン自身の少年時代の記憶が色濃く反映された自伝的な作品でもある。

ここまで、『トム・ソーヤーの冒険』について教科書的に説明をした。正直に言うと、これほど有名な小説の感想や考察はほとんど全ての論点が語りつくされているため、感想をブログに書くというのは難しい。そのため、今回の記事ではテーマを絞ってこの作品を紹介したい。
私がこの小説の中で特に面白いと思ったのは、この小説における「信仰」「教育」「正義」の描かれ方である。今回は、この3つのテーマを軸に『トム・ソーヤーの冒険』が名作である理由について考察していきたい。
『トム・ソーヤーの冒険』あらすじ
はじめに、『トム・ソーヤーの冒険』のあらすじを簡単に紹介したい。
物語の舞台は1840年代のミズーリ州の架空の町、セント・ピーターズバーグ。主人公のトム・ソーヤーは、亡き母の姉であるポリーおばさんのもとで暮らす少年で、学校をサボったり、ペンキ塗りの罰を機転を利かせて友達に押しつけたりと、いたずら三昧の日々を送っている。
物語が大きく動くのは、トムと親友のハックルベリー・フィンが深夜の墓地で殺人事件を目撃する場面からである。ハックことハックルベリー・フィンは、飲んだくれの息子で、学校も通わないアウトサイダーである。
2人が目撃した殺人事件の犯人はインジャン・ジョーという男で、彼は町の飲んだくれであるマフ・ポッターに罪をなすりつける。トムとハックは恐怖から沈黙するが、無実のポッターが裁判にかけられると、トムは良心の呵責に耐えかね、法廷で証言することを決意する。
やがてトムは、洞窟の中でインジャン・ジョーが隠した金貨を発見し、町の英雄となる。物語の最後には、ハックは自分が助けたダグラス未亡人に引き取られ、文明的な生活を送ることになるが、この窮屈さに馴染めないハックの姿が描かれて幕を閉じる。
『トム・ソーヤーの冒険』はなぜ名作なのか
『トム・ソーヤーの冒険』は、子どもたちの目線から大人社会を風刺した作品である。だからこの小説は子どもが読んでも楽しい冒険譚で、そして大人が読んでも面白い小説になっているのだ。では、トウェインは一体どのような風刺をこの作品で繰り広げているのか。
『トム・ソーヤーの冒険』が描いた信仰
その風刺が向けられる先の一つが、信仰である。物語の序盤、トムは日曜学校で聖書の暗唱を求められる。聖書の言葉を一定数暗記すると券がもらえ、券を集めれば聖書が賞品としてもらえるという仕組みだ。真面目な兄のシドが暗記に励むのに対し、トムはろくに覚えようともしない。しかしトムは、他の少年たちとこの引換券を交換することで、聖書を暗記していないにもかかわらず賞品を手にしてしまう。聖書を獲得したトムは、何も事情を知らない判事に称賛され、質問を出されるが、答えられない。
「よし!いい子だ。立派な子だ、立派で、男らしい。聖書二千節とは大したものだーー実に大したものだよ。(中略)君はもちろん、イエスに付き従った十二使徒の名前を憶えているよね。一番最初に二人、使徒になるよう命じられたのは誰だったか、教えてくれるかね?」
マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』(柴田元幸訳、新潮文庫)59~60ページ
答えはペテロとアンデレだが、トムはやむをえず「ダビデとゴリアテ!」とあてずっぽうで答える。そしてこのシーンは「続く情景には、憐れみのカーテンを下ろしてやることにしよう。」と続いて終わる。
これは有名なエピソードだが、狡猾なトムが不正の報いを受けたというシーンにも読める。私も子どもの頃に読んだときには、このシーンで「やっぱり、ずるはいけないよな」と思った記憶がある。
だが、大人になってみて気づくのは、このシーンは信仰の本質ではなく、信仰の「見かけ」だけが評価されるという教会の体質を風刺しているのではないかということである。
さらに続く教会の礼拝シーンでは、牧師の味気ない説教に、人々の注意が「クワガタ虫とプードル」に向かってしまう場面がある(クワガタを持ち込んだ元凶はトムなのだが)。トウェインは、建前上は敬虔な信者であるはずの大人たちが、聖なる礼拝の場で虫と犬のドタバタ劇に夢中になる姿をユーモラスに描くことで、大人たちを皮肉っている。
もちろん、トウェインはこの小説でキリスト教そのものを否定しているわけではないだろう。信仰が社会的な体面の道具と化し、本来の精神性が損なわれていることを風刺しているのだと思う。

『トム・ソーヤーの冒険』が描いた学校教育
そしてトウェインの風刺は、教会だけでなく学校教育にも向けられている。作中の学校で教師のドビンズ先生は鞭を振るって子どもたちを指導するが、子どもたちは退屈している。トムが学校を嫌い、あの手この手でサボろうとする姿は、画一的で抑圧的な教育制度への批判としても読める。
中でも私が面白いと思ったのは、卒業式の場面である。この場面で生徒たちが作文を朗読するが、その内容はどれも紋切り型で面白くない。その面白くなさが面白いのだ。
さらに、この場面が真に面白いのは、実は本編ではなくトウェインが欄外で記している注釈にある。トウェインは、こう「著者付記」を記している。
著者付記 本章に掲載した「作文」と称する文章は、『ある西部の女性による散文・韻文』と題された書物から、いっさい変更を加えずに引用したものである。
マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』(柴田元幸訳、新潮文庫)247ページ
ただし、実はこの注釈もトウェインの皮肉だという。実際はトウェインは書物から引用をしていない(作文も自分で創作している)が、メタフィクション的に当時の女性向け道徳文学を風刺しているのである。
また『トム・ソーヤーの冒険』という小説が興味深いのは、トウェインはこの小説そのものを学校教育以外の重要さを説くために用いているという点である。事実トムは、学校の外で多くの学びを得ている。墓地での殺人事件の目撃はもちろん、海賊ごっこや洞窟での冒険といった体験を通じて、トムは判断力を身につけたり道徳的な成長を遂げていったりすることが描かれる。トウェインは、制度化された教育よりも実体験のほうが人間を成長させるという考えを、物語の構造そのものに織り込んでいるのである。
『トム・ソーヤーの冒険』が描いた「正義」
そして『トム・ソーヤーの冒険』の小説の一つ目のクライマックスであり、さらに社会風刺として最も痛烈なのが、マフ・ポッターの冤罪と裁判をめぐるエピソードである。
町の飲んだくれであるマフ・ポッターは、インジャン・ジョーによってロビンソン医師殺害の罪をなすりつけられる。決定的な物的証拠はないのに、町の人々はポッターの有罪をあっさり受け入れてしまう。ポッターは町の飲んだくれという社会的弱者であり、彼の言い分に真剣に耳を傾ける大人はほとんどいない。
だが投獄される前のポッターは、子どもたちに良い釣り場を教えてやったりする、優しい人物として描かれている。トムとハックだけが、冤罪で投獄されたポッターの優しさを覚えているが、大人たちは忘れてしまう。
そして面白いのは、トムの証言によってポッターの無実が明らかになった後の町の反応である。それまでポッターを罵っていた町の人々が、またしても手のひらを返して彼を称え始める。
例によって、気まぐれで理性とは無縁の世間は、さんざん罵倒していたマフ・ポッターを一転して暖かく受け入れ、今度はさんざん持て囃した。
マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』(柴田元幸訳、新潮文庫)264ページ
ただ、このシーンで実はトウェインは移り気な世間を「むしろ世間の美点と見るべきである」と擁護している。世間は間違えることもあるが、真実が明らかになれば態度を改めることもできる、その柔軟さは美点だと述べているのだ。
だから必ずしも掌返しをする世間は批判対象になっていないのだが、むしろなぜ最初にマフ・ポッターが有罪となったのかという点が一番の問題となっている。それは、社会がその人物の本質ではなく、飲んだくれの貧乏人といった外面的な地位や評判だけで判断を下しているということへの批判だろう。
そしてこのテーマについてはハックルベリー・フィンという人物の存在こそ象徴的である。ハックは町の飲んだくれの息子であり、学校にも教会にも通わないアウトサイダーである。町の少年たちはハックを羨ましがるが、大人たちは子どもがハックと遊ぶことを禁じる。ハックは不良であり、文明化されていない存在だからである。
しかし物語を通じて明らかになるのは、ハックが実はトムよりも道徳的に優れた行動をとる人物だということである。物語の二つ目のクライマックスとなるインジャン・ジョーとの対決では、ハックがより活躍する。トウェインは、社会から排除された子どものほうが、「立派な」大人たちよりも人間的に優れているという逆説を提示しているのだ。そしてハックは『トム・ソーヤーの冒険』の続編『ハックルベリー・フィンの冒険』では文明的な生活から脱出し、冒険の主人公としてさらに多くの社会の欺瞞と対峙することになる。
おわりに
ここまで見たように、改めて『トム・ソーヤーの冒険』という小説を読むと、トウェインは宗教、教育、司法、階級と人種といった多岐にわたるテーマを風刺の対象としている。そしてこれらの風刺は、「子どもの視点」を通して大人社会の欺瞞を描くという手法が用いられているのだ。
もし『トム・ソーヤーの冒険』を子ども時代に読んだだけだという方がいれば、ぜひ大人になった今、改めて読み返してみてほしい。子どものときには印象に残らなかったシーンにも、面白いと思えるシーンがあるはずである。そしてもちろん、まだこの小説を読んだことがないという方も、児童文学だと思わずにこの小説を読んでみてほしい。
▼新潮文庫版は柴田元幸訳
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