
作家にはそれぞれ、その作家にしか出せない雰囲気というものがあり、そして小説には、特定の時代にしか生まれなかったようなものもある。そのことを強く感じさせる作家の一人が、アメリカの作家リチャード・ブローティガン(1935~1984)である。
リチャード・ブローティガンは、1935年にワシントン州タコマで生まれた。貧しい家庭環境で育ち、20代前半にサンフランシスコに移住して文学活動を始めた。独特の詩的な文体で知られるようになった作家である。
日本では藤本和子の名訳で知られ、藤本和子の訳とともにブローティガンは親しまれてきた。現代ではむしろ、アメリカ本国よりも日本でのほうがブローティガンの人気は高いともいわれる。(ちなみに生前のブローティガンも東京にはよく行っていて、『東京モンタナ急行』などの著作も残している。この本はいまやプレミア価格がついた稀覯本になっている)
しかし、ブローティガンも生前はアメリカのとある一時代を象徴する作家であったのは間違いない。ブローティガンが時代を象徴する作家なのは、いわゆるビート・ジェネレーション、つまり1960年代のカウンターカルチャーに大きな影響を与えたからである。だがブローティガンは1984年に49歳の若さで亡くなった。拳銃自殺だった。
ビート・カルチャーは、スピリチュアル世界の探究、経済的物質主義の拒否、西洋と東洋の宗教の融合などが特徴とされるが、実際にブローティガンの小説には、スピリチュアルでサイケデリックな雰囲気が漂う。この作品は、1960年代という時代の雰囲気を知ることができるという意味でも面白い。だが、より踏み込めば、この作品が提示したテーマは現代にも通じるように思われる。今回は、その代表作『西瓜糖の日々』(In Watermelon Sugar)について紹介していきたい。
『西瓜糖の日々』設定・あらすじ
はじめに、『西瓜糖の日々』という小説の世界観とあらすじについて、簡単に触れたい。
『西瓜糖の日々』の物語の舞台になるのは、あらゆるものが“西瓜糖”でできた世界である。西瓜糖は、甘くて、透明で綺麗だけれど、やわらかくて中身のないものだ。
この西瓜糖でできた共同体は、「アイデス」(iDEATH)と呼ばれる。この不思議な名前の場所では、すべてのものが西瓜糖でできており、住民たちは穏やかで平和な生活を送っている。物語の語り手である「私」は、この共同体の一員として、日々の出来事を淡々と語っていく。
「私」には、ポーリーンという恋人がいる。そして「私」の元恋人であるマーガレットという女性もいて、奇妙な三角関係になっている。マーガレットは現在は共同体「アイデス」を離れて森で一人暮らしをしている。マーガレットは共同体の価値観に疑問を抱き、そこから距離を置いた人物として描かれている。
アイデスの周辺には「忘れられた世界」(the Forgotten Works)と呼ばれる廃墟が存在する。これは以前の文明の遺跡であり、アイデスの住民たちは基本的にそこには近づかない。しかし、マーガレットはこの廃墟に魅力を感じており、そこでの生活を選んでいる。
『西瓜糖の日々』考察
この物語については、いろいろな考察の仕方があるだろう。だがここでは、主人公の「虎」のエピソードと、主人公とマーガレットとの関係を通して、『西瓜糖の日々』が描いた現代社会に通じるテーマについて考察していきたい。
アイデス(iDEATH)という言葉が表す意味
ここではじめに、『西瓜糖の日々』の独特の世界観を象徴する「アイデス」(iDEATH)という共同体の名前について触れておきたい。この奇妙な名前は、単なる地名ではなく、作品に通底するテーマを持っている。
「iDEATH」という表記は「i」(=つまり英語の一人称である「わたし」)と、「DEATH」からなる。「アイデス」は、また、「理想」(ideal)と「死」(death)の融合をも示唆している。「i」が小文字になっているのも示唆的である。ちなみに余談だが、公式には認められてはいない噂話としては、「iPod」などのApple製品の表記には、ヒッピーでもあったジョブズに本作品が与えた影響を指摘する声もあるという。
この「アイデス」という名前は、現代社会における「生と死の逆転」という現象を指摘しているのではないかと思う。現代人の多くは、物理的には生きているが、精神的には死んでいるような状況に置かれている。日々の生活は安全で快適だが、真の生きがいや情熱を見つけることができない。このような状況こそが、ブローティガンが「iDEATH」という言葉で表現しようとした現代的な死の形なのではないかと思う。
『西瓜糖の日々』主人公像の考察
この作品の主人公像についてはいろいろな読み方ができるだろうが、ここでは、主人公「私」こそ「アイデス」(=個人の死)を象徴した人物であり、先述のマーガレット「個人の死」に対抗した人物であるという読み方をしていきたい。
「虎と算数」のエピソード
『西瓜糖の日々』の主人公「私」について、個人的に最も印象的だったのは「虎と算数」のエピソードである。
「私」の両親は、「私」がまだ幼かった頃、虎に食い殺されている。この物語の世界には、かつて言葉を話す虎たちが暮らしていた(現在は狩りつくされている)。虎たちは美しく、歌をうたう、高い知性を備えた存在だった。だが同時に、生きるために人を食う獣でもある。ある日、その虎が「私」の家にやってきて、両親を食べた。しかし虎たちは、決して残虐なわけではなく、むしろ礼儀正しく両親を食べたことを詫びさえするのだ。
「悪いと思ってるよ」と一頭が言った。「ほんとに、すまない」
「そうだよ」ともう一頭の虎もいった。「こんなことしないですむんなだ、もうこれより方法がないっていうもんじゃなかったら、おれたちだってやらないよ。でもさ、生き延びるにはこれしかない」
「おれたちだって、お前らと同じだ」ともう一頭の虎がいった。「喋る言葉も同じだしよ。考えることだって同じなんだ。ただ、おれたちは虎なんだ」
「算数を手伝ってほしい」とわたしはいった。リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』(藤本和子訳、新潮文庫)55ページ
そして虎は、幼い「私」の算数の宿題を手伝ってやった。
この場面は、出来事と私の行動はもちろん、それを語る「私」の口ぶりも異様である。「私」は、両親が食い殺された記憶を、どこか懐かしむような調子で淡々と語る。ここには、肉親の死を前にした人間の当然の情動が、きれいに抜け落ちている。
この「虎と算数」のエピソードを、私は次のように読みたい。「虎」が象徴するのは、人間には制御できない現実、私たちの小さな共同体では飼いならすことのできない剥き出しの暴力である。一方の「算数」が象徴するのは、日常のこまごまとしたルーティンであり、現代の私たちはたとえ大きな暴力にさらされても仕事や学業といった自らのタスクに追われている。あるいは「算数」は、世界を成り立たせる構造そのものと読めるのかもしれない。このシーンは、そういった現代社会を描いているようにも思うのだ。
両親が食わた直後に、子どもの宿題が解かれていく。この奇妙な対比こそが、主人公の「私」がiDEATH、つまり精神的な死を体現する人物であることを表しているように思う。そして虎が絶滅して平和が訪れても、「私」のあり方、つまり精神的情動の希薄さはそのままになっている。
作者の分身としてのマーガレット
一方で、そんな「私」と対照的なキャラクターとして造形されるのがマーガレットだ。
すでに「あらすじ」で触れたように、マーガレットは共同体アイデスを離れ、住民たちが決して近づかない「忘れられた世界」に強く惹かれている。彼女はそこから古い遺物を拾い集め、過去の文明の残骸に価値を見いだそうとする。そのふるまいゆえに、彼女は共同体のなかで次第に疎外されていく。穏やかな平和を享受し過去を忘却するアイデスの中で、マーガレットだけが失われた過去に固執しているのだ。
ここからはネタバレになるが、『西瓜糖の日々』におけるマーガレット像の考察する上で見過ごせないのは、作者ブローティガン自身の人生の結末である。ブローティガンは先述の通り、1984年9月16日、49歳の時に44マグナム拳銃で自殺した。ブローティガンは結局、現代社会に適合できなかった人物なのだ。
そしてこの作者の結末は、マーガレットの運命に、そのまま重なっている。物語の終盤、アイデスを離れて暮らしていたinBOILという男とその一党が、酔いにまかせて共同体へ押し寄せ、鱒の孵化場で自らの体を刃物で傷つけながら次々と命を絶つという凄惨な事件が起こる。彼らは「死んだ虎たちこそが本当のアイデスなのだ」と言い残して死んでいく。この出来事に激しく心を揺さぶられ、その意味を理解したただ一人の人物が、マーガレットだった。
マーガレットはアイデスの「西瓜糖」的な幸福に馴染みきれず、過去に魅了される。マーガレットはiDEATH、つまり平準化された個人、去勢された情動に抗い、ある結末を迎えることになる。その結末はおそらく作者ブローティガンにとって不可避なものだった。だからこそ、『西瓜糖の日々』という小説にはどこかただのファンタジーではない痛切さがあるのではないかと思う。
おわりに
この作品は、1968年の発表から半世紀以上が経った今でも、その魅力を失っていない。もちろんこの本の一番の魅力は、そのテーマというよりは、時代を象徴する雰囲気にあるのかもしれない。だが、『西瓜糖の日々』は、私たちに幸福と生き方とは何かを問いかけてくれる。だからこの作品は時代を超えた名作なのである。
本国アメリカでは、ある意味でブローティガンの描いた『西瓜糖の日々』は「忘れられた世界」(the Forgotten Works)なのかもしれない。だが、この作品こそ「the Forgotten Works」であるということに思いを馳せながら、西瓜糖で彩られたアイデスを想像して読むと、よりこの小説は印象的な作品になると言えるかもしれない。
▼ほかにブローティガンの代表作として名高いのは、『アメリカの鱒釣り』『芝生の復讐』。いずれも藤本和子訳である。藤本和子の訳は、村上春樹や小川洋子といった小説家も影響を受けたことを公言している。
▼『西瓜糖の日々』は、小説だが、半分詩集のような作品である。このブログでも以前紹介した、韓国のノーベル文学賞作家ハン・ガンの小説『すべての、白いものたちの』も半分小説で半分詩集のような作品だが、『西瓜糖の日々』が1960年代の雰囲気を体現しているものだとしたら、『すべての、白いものたちの』は21世紀を象徴するような小説である。全く作品の中身は異なるが、作品の形式にはやや似た部分もあり、興味を持った方はでひ読み比べてみてほしい。



