
岩明均の漫画『ヒストリエ』が休載してから4年近くが経ったが、一方でアニメ化が発表され、そろそろ連載が再開するのではないかという期待が高まっている。岩明先生にはお身体を大切に、そしてご自身の納得のできる漫画を描いていただきたいというのはもちろんであるが、一方で貪欲な読者の気持ちとしては早く連載が再開されてほしい、物語が進むのを見たいというのも正直な気持ちである。
というわけで、連載再開への期待が高まる中で、今回は『ヒストリエ』について、特に『ヒストリエ』のラスボスについて考察をしていきたい。
この記事では史実の話をするので、もちろん作者がどのように物語を展開していくのかは分からないが、ネタバレになる可能性がある内容を含むので、あらかじめ断っておく。
『ヒストリエ』概要
『ヒストリエ』は歴史フィクションとして非常に優れている。
もちろん、『ヒストリエ』には明らかな創作部分もあるのだが、一方でそのような創作部分も史実や実在した人物を生かしており、歴史とフィクションを巧みに接合している。
主人公エウメネスは実在した人物だが、その前半生はほとんど記録に残っていない。岩明均はその空白を想像で埋めながら、物語は史実をなぞって進行していく。
『ヒストリエ』のラスボスとはだれか
では、ここからは記事の本題に入りたい。
12巻で明らかになったラスボス
『ヒストリエ』の12巻では、ストーリーが大きく進行し、多くの伏線が回収された。しかも、物語の非常に初期に張られていた伏線が回収されたのだ。
たとえば、アルケノルという人物についてである。4巻でアリストテレスを追っていたバルシネが、レスボス島の生物研究所で出会った奇妙な男である。『ヒストリエ』の中で唯一、写真を使ったようにも思えるコマ(とはいえおそらく実際は手書きな気がするが、つのだじろうの『恐怖新聞』などの写真を使ったコマを想起する)も印象的な、不気味な男である。この人物は、4巻で登場した際にはそもそも名前も判明していなかった。しかし、10年以上の時を経て、その名前が明らかになったのである。

では、12巻でアルケノルはなぜ登場するのか(ちなみに、アルケノルは架空の人物である)。そのストーリー上の必然的な理由は、生命を研究しているアルケノルが、死んだ人間を蘇生させるからである。
アルケノル(とアリストテレス)は、誰を蘇生させるのか。それこそ、12巻で暗殺されたマケドニア王のフィリッポス2世である。
フィリッポスは生き返るのか
だが、フィリッポス2世は蘇生しても、それでめでたしめでたし、ということにはならない。再び即位することもない。フィリッポスは別の人生を生きていくのだ。
では、フィリッポスは一体どのような人物としてこの後生きていくのだろうか。ここで、『ヒストリエ』で第1巻から描かれていた伏線が生きてくる。
フィリッポスは第1巻、カルディアで主人公エウメネスと出会った際に「アンティゴノス」と名乗っていた。

高校で世界史を学んだ人であればピンとくるだろうが、アンティゴノスと言えばアレキサンダー大王の死後、ディアドコイ戦争(後継者争い)を争うアンティゴノス朝マケドニアの祖として世界史の表舞台に登場する。もちろんフィリッポス2世とアンティゴノスは当然史実では全くもって同一人物ではなく、これは岩明均の創作であるのだが、史実でもアンティゴノスとフィリッポス2世の生年は一緒であり、そして両者ともに隻眼であるという点も共通している。
第1巻から「フィリッポス2世=アンティゴノス説」は名前から示唆されていたものの、果たして本当にそうなのか、一度死んだフィリッポスがなぜ歴史の表舞台にアンティゴノスとして舞い戻るのかは、読者にはわからなかった。だが第12巻で、フィリッポスが暗殺され、そして蘇生されたことによって、「フィリッポス2世=アンティゴノス説」は極めて可能性の高いものになったと思われる。
岩明均はエウメネスという前半生が不明なマケドニアの重要人物を主人公として取り上げるとともに、フィリッポス2世とアンティゴノスの奇妙な類似についても気づいていた。そしてそれを物語の核に据えたのだろう。
この後の展開としては、フィリッポス2世は記憶の全てまたは一部を失うか、あるいは性格の全部または一部が変化して「アンティゴノス」としての生を享けるということになるのだろう。もしかすると『ヒストリエ』は歴史小説でありながら、「一度死んだが蘇生した人物」を描くというSF的なテーマ、そして『寄生獣』のように人間とは何かというテーマも持った漫画になるのではないかとも思う。
『ヒストリエ』の結末とは何か
この「フィリッポス2世=アンティゴノス説」は、実は『ヒストリエ』という物語の結末を考える上で、非常に大事になってくる。
『ヒストリエ』の物語は、アリストテレスがアケメネス朝ペルシャの追手から主人公のエウメネスとともに逃げるところから始まる(紀元前343年頃)。そこから、エウメネスが生まれ故郷のカルディアに戻り、一度過去を回想し(『ヒストリエ』第1巻~第4巻)、以降は回想シーンを除き、物語内の時間軸と語りの時間軸がほぼ一致するようになる(第5巻以降)。
物語開始当初は、主人公が実在の人物であるエウメネスであることは明らかになっているものの、物語のラストがどこになるのかは分かっていない部分もあった。エウメネスはアレキサンダー大王よりも長生きするが、アレキサンダー大王が死んだ時点で物語を終えるのではないか、という読みも当然できたであろう。
だが、アンティゴノスが物語に登場してきたことによって、この状況は大きく変わったといえる。『ヒストリエ』は、少なくとも構想としては、アレキサンダー大王の死後も描かれるはずの物語であることが明らかになったのだ。
なぜなら史実では、最終的にエウメネスの命を奪うことになった人物こそアンティゴノスだからである。フィリッポス2世がアンティゴノスとなり、アレキサンダー大王の死後の後継者争い(ディアドコイ戦争)で、エウメネスと対立する。これが『ヒストリエ』という物語の後半で構想されていることのはずである。
プルタルコス『対比列伝』を読む
ここで、史実について振り返りたい。(史実に興味のない方は読み流してほしい)
もちろん作者の岩明均はより広範な史料を渉猟しているはずだが、我々に最もなじみが深く入手しやすい、エウメネスについての記述がある書物はプルタルコスの『対比列伝』である。ここで、『対比列伝』をもとに、今後のエウメネスの生涯について予想をしてみたい。
『対比列伝』に見る『ヒストリエ』の時代
まずは『ヒストリエ』の第12巻までの時間の、『対比列伝』の記述である(なお、『対比列伝』は当然ながら著作権が切れていることもあり、以下の表の大枠は生成AIに作らせている)。
| 西暦(参考) | 出来事 | 典拠 |
|---|---|---|
| — | フィリッポス2世、サモトラケでオリュンピアスと出会い結婚する | 「アレクサンドロス伝」第2章 |
| 紀元前356年 | アレクサンドロス誕生。同日エフェソスのアルテミス神殿炎上。ポテイダイア攻略中のフィリッポスに三つの吉報が同時に届く | 「アレクサンドロス伝」第3章 |
| — | 少年アレクサンドロス、荒馬ブケファラスを乗りこなす | 「アレクサンドロス伝」第6章 |
| 紀元前343頃 | フィリッポス、アリストテレスを家庭教師に招く | 「アレクサンドロス伝」第7章 |
| — | カルディアにて、フィリッポスが少年エウメネスを見出し従者に加える | 「エウメネス伝」第1章 |
| 紀元前340年 | 16歳のアレクサンドロスが摂政を務め、マイディ人を平定しアレクサンドロポリスを建設 | 「アレクサンドロス伝」第9章 |
| 紀元前338年 | カイロネイアの戦い。 アレクサンドロスが最初にテーバイの神聖隊の戦列を破る | 「アレクサンドロス伝」第9章 |
| 紀元前337年 | フィリッポスとエウリュディケの婚礼の席で、アッタロスの発言を機に父子が衝突 | 「アレクサンドロス伝」第9章 |
| 紀元前336年 | フィリッポス、パウサニアスに暗殺される | 「アレクサンドロス伝」第10章 |
ほぼ上記の年表は、『ヒストリエ』の作中の年表と一致していることが分かるだろう。
『対比列伝』に見る『ヒストリエ』以降の時代
では、『ヒストリエ』第13巻以降の内容はどうなるのだろうか。ここで、「アレクサンドロス伝」「エウメネス伝」の内容をまとめた。
| 紀元前336年 | 20歳でアレクサンドロス即位。ドナウ方面まで遠征 | 「アレクサンドロス伝」11 |
| 紀元前334年 | グラニコス川の戦い | 「アレクサンドロス伝」16 |
| 紀元前333年 | アレクサンドロス、ゴルディアスの結び目を断つ | 「アレクサンドロス伝」18 |
| 紀元前333年 | イッソスの戦い。 ダレイオス3世を破り、陣営と財宝を得る | 「アレクサンドロス伝」20 |
| 紀元前333年 | ダレイオス3世の母・妃・二人の娘を捕らえ丁重に遇する | 「アレクサンドロス伝」 21 |
| 紀元前331年 | アレクサンドリア建設 | 「アレクサンドロス伝」26–27 |
| 紀元前331年 | ガウガメラの戦い ダレイオス敗走、「アジアの王」と称される | 「アレクサンドロス伝」31–34 |
| 紀元前330年 | ペルセポリス炎上 | 「アレクサンドロス伝」38 |
| 紀元前330年 | ダレイオス、配下に殺される | 「アレクサンドロス伝」43 |
| 紀元前327年 | アレクサンドロス、ロクサーネと結婚 | 「アレクサンドロス伝」47 |
| 紀元前324年 | スサの集団結婚で、アレクサンドロスがバルシネの妹アルトニスをエウメネスに与える | 「エウメネス伝」1 |
| 紀元前324年 | ヘファイスティオンが病死。アレクサンドロス深く嘆く | 「アレクサンドロス伝」72 |
| 紀元前323年 | アレクサンドロス、バビロンで病死 | 「アレクサンドロス伝」75–77 |
| 紀元前323年 | アレクサンドロス死後、エウメネスは「異邦人」として中立を装う。領地分割でカッパドキア等を得るが、着任を任されたアンティゴノスはペルディッカスの命を無視 | 「エウメネス伝」3 |
| 紀元前322年 | ペルディッカスがカッパドキアを征服し、エウメネスを総督とする | 「エウメネス伝」3 |
| — | ペルディッカス、エウメネスにアルメニア・カッパドキアの全権を委任。6,300騎を編成 | 「エウメネス伝」4–5 |
| — | エウメネス、ネオプトレモスを破る | 「エウメネス伝」5 |
| — | クラテロスとネオプトレモスが進軍 | 「エウメネス伝」6 |
| — | 会戦でクラテロスが致命傷を負って死に、エウメネスは一騎打ちでネオプトレモスを討つ(前の戦いの約10日後) | 「エウメネス伝」7 |
| — | ペルディッカスがエジプトで殺される。 マケドニア人会議がエウメネスに死刑を宣告、アンティゴノスとアンティパトロスに討伐を委ねる | 「エウメネス伝」8 |
| — | アンティゴノス、オルキュニアで裏切りに乗じてエウメネスを破る エウメネス、ノラの要塞に籠城。アンティゴノスと会見(甥プトレマイオスを人質に) | 「エウメネス伝」9-11 |
| 紀元前319年 | アンティパトロス死去。全帝国を狙うアンティゴノスが和議を打診。エウメネスは誓約文を王家優先に改め、包囲を解かせて脱出 | 「エウメネス伝」12 |
| 紀元前319~316年 | エウメネスとアンティゴノスの抗争(略) | 「エウメネス伝」18 |
| 紀元前316年 | アンティゴノス、エウメネスを餓えさせた末に処刑(冬、前316/315年とも)。 | 「エウメネス伝」19 |
アレクサンドロスの死後、エウメネスの人生はほとんどアンティゴノスとの対立と言ってよい。(そして意外と、『ヒストリエ』の12巻まではあまり目立たないネオプトレモスやペルディッカスが重要になってくることが予想できる)
もし岩明均がこの史実の流れをなぞるのであれば、『ヒストリエ』は当然アレクサンドロスの死を越えて続き、その果てにアンティゴノスとの最終決戦が待つことになる。
ただし史実に戻ると、アンティゴノスとエウメネスは抗争を続けたものの、あくまで一人の人間としては終生友人同士でもあった。エウメネスの死後、アンティゴノスは盛大な葬儀を行うこととなる。この友情と対立というねじれこそ、岩明均の解釈で見たいテーマである。
『ヒストリエ』のラストとは
ここにいたって、「フィリッポス2世=アンティゴノス説」の本当の意味が立ち上がってくる。
第1巻、カルディアで少年エウメネスを見出し、自らの従者に加えて人生を与えた隻眼の男。彼が一度死に、「アンティゴノス」として蘇り、今度はエウメネスの命を奪う者として歴史の表舞台に戻ってくる。二人の出会いから始まった物語が、二人の宿命的な再会によって閉じるのだ。だとすれば、第1巻の伏線も、12巻での蘇生という一見SF的な仕掛けも、この作品全体を貫く構造そのものだったということになる。
実はこの漫画でエウメネス以外に最も重要なキャラクターは、アレクサンドロスではなく、フィリッポスだったのだ。
おわりに
岩明均が、エウメネスの死まで物語の結末を描いてくれるのか、そもそも連載がいつ再開するのか、それはわからない。だが、史実をなぞりながら物語を見ると、その構想ははっきりと見えてくる。まだダレイオス3世も登場していないのに時期尚早なのは百も承知だが、この物語の最後の敵はアンティゴノス(すなわちフィリッポス)、そう断言してもよいだろう。
エウメネスとアンティゴノスの関係を岩明均がどう描くのか。それは作者にしか分からないが、気長に完結を待ちたいと思う。
▼プルタルコス(プルターク)の『対比列伝』(英雄伝)。著作権フリーということもあり、Kindleでは安価な版も多い。
▼このブログでは岩明均の『寄生獣』や『雪の峠・剣の舞』についての紹介も書いている。個人的には『雪の峠・剣の舞』は日本を舞台にした短編歴史マンガとして最も好きな作品の一つである(しかし残念なことに絶版になっており、かなり入手しにくい)。



