このブログでは海外文学ばかり取り上げてきたが、日本文学も好きである。
以前海外文学のおすすめ10選を取り上げたので、せっかくなので対になるように日本文学のおすすめもしてみようと思う。
海外文学には、その地域特有の文学の魅力がある。しかし、日本文学も当然「日本の文学」であり、特有の魅力があるのである。
ここではおすすめの日本文学について、江戸時代~明治~大正~昭和までの10作品を選んだ。
※一覧は記事の一番下にあります。
上田秋成『雨月物語』
基本この記事では明治以降の作品を紹介することとしたいが、一冊だけ近世(江戸時代)の文学を紹介したい。それが『雨月物語』(1776年刊)である。
全部読もうとするとかなり長く、昔の講談社学術文庫版は上下巻だった(現行の新版は一巻にまとめられている)ので、記事の趣旨の「文庫一冊以内」に偽りがあると思われても仕方ないのだが、9編の短編からなる短編集なので読みやすい。
話としては、幽霊や生霊、動物の化身などが登場する怪異譚で、どこか教訓的でしんみりとした結末の読後感は、江戸時代の文学特有のものがある。
中世・近世の日本人は、ほんとうに幽霊と一緒に暮らしていたんじゃないか、という気分に浸ってしまうような幻想的な世界に誘ってくれる話の数々である(実は、『雨月物語』のいくつかは中国の逸話が元ネタなのだが)。
幽霊や出てくるようなファンタジーが好きな人は、ぜひ一度読んでみてほしい。
夏目漱石『夢十夜』
日本文学の名作を挙げるなら、夏目漱石は絶対に欠かすことができない。
『吾輩は猫である』は今読んでも面白いし、『三四郎』は大学生になりたての時に読んだら色々と共感できたし、もちろんその他の作品も名作ぞろいだ。
だが、ここでおすすめしたいのは、『夢十夜』(1908年)。
こんな夢を見た
で始まる、10の「夢」からなる短編集といってもよい小説である。
『夢十夜』がおすすめなのは、読んでいて一番「文学」を読んでいる感覚がするから。文章は美しいし、「これはどういうことなの?」というラストも多いが、それも含めて私は非常に好きである。「夢」を描いているだけあって、現実と幻想のはざまを味わえる。
夏目漱石の作品は無料の青空文庫でも読めるので、ぜひ読んでみてほしい。青空文庫はスマホやPCのKindleアプリで読むのが個人的にはおすすめである。
武者小路実篤『お目出たき人』
昔の小説というと敬遠してしまう人が多いかもしれないが、昔の小説だからと言って堅苦しいものばかりではない。
武者小路実篤の『お目出たき人』(1911年)は、著者が
自分は我がままな文芸、自己のための文芸を是認している。
と序文に書いているように、まったく堅苦しさのない小説の典型だろう。
「誠に自分は女に飢えている」と語る主人公が恋をする妄想するだけの小説で、馬鹿馬鹿しくてけっこう笑えるのだが、ちょっと行き過ぎていて気持ち悪いところもある。
そのようなわけで個人的にこの作品は好きなのだが、武者小路実篤は『友情』のほうが名作なのは間違いないので、名作を読みたいなら『友情』を読んだ方がいいかもしれない。
武者小路実篤は名前だけなら知っているという人は多いと思うが、堅苦しい名前とは裏腹にこんなに変な小説も書いていることは、ご存じだっただろうか。昔の作家は堅苦しいという偏見を持つのはよくない、ということを強く主張したい。
谷崎潤一郎『刺青』
読むと歪んだフェティシズムを得てしまう作家といえば、谷崎潤一郎。
『刺青』(1911年)は谷崎のデビュー作にあたる短編だが、まさにその典型である。
タイトルの通り、彫り師が理想の女に刺青を彫る物語で、谷崎の足や皮膚へのフェティシズムが短い小説の中に詰まっている。谷崎の描く性的倒錯に溺れない自信がある人や、すすんで溺れようという人は、読んでみてほしい。
谷崎はほかにも非常に多くの小説を残したので、もし谷崎ファンになったら一生飽きることはないはず。谷崎がもし生きていたら、1968年のノーベル文学賞は川端康成ではなく谷崎になっていたと言われる。
例の如く青空文庫でも読めるので、ぜひ。
太宰治『斜陽』
太宰治は第一回芥川賞の候補になったにもかかわらず芥川賞を受賞できなかったが、私は芥川龍之介よりも太宰治の作品の方が好きである。
個人的に太宰の作品で最もおすすめしたいのは『斜陽』(1947年)。
太宰というと『人間失格』の方が有名かもしれないが、私が『斜陽』を好きなのは、なんとなく「貴族としての矜持」が邪魔をしてしまう主人公(の弟)に対して、自分のことをさらけ出せない『人間失格』の主人公よりも共感できるからである(没落した貴族の話が好きだという理由もあるが)。
貴族趣味の人は、没落貴族の苦悩に悶絶してほしい。
三島由紀夫『禁色』
戦後の日本の作家として絶対に外せないのは、三島由紀夫。
最後は割腹自殺して死んでしまったわけだが、三島由紀夫ほどの小説家は後にも先にもいないだろう。個人的には、ノーベル文学賞は川端康成ではなく三島由紀夫にあげてほしかったと思うくらいである。
三島の小説の中でおすすめなのは、『禁色』(きんじき、1951~1953年発表)。
三島由紀夫というと、同性愛が作家としての大きなテーマであり、『仮面の告白』が有名だが、『禁色』も真っ向から同性愛を描いた作品である。『禁色』は文庫一冊とはいえかなり長いが、話の展開がはっきりしていて物語としてもかなりエキサイティングで面白いので、おすすめである。戦後すぐの男色事情などについてもわかる。(本ブログの感想記事はこちら)
遠藤周作『海と毒薬』
戦後の日本文学を語るなら、戦争を題材にした作品を外すことはできない。
もっとも、戦後すぐに書かれた作品はすべて戦争の影響があると言っても過言ではないのだが、いわゆる「戦争文学」としておすすめしたいのは、遠藤周作の『海と毒薬』(1957年)。
戦時中に米軍捕虜が九州大学で生体解剖された事件をモチーフにしたこの小説は、「普通の人」でも戦争下では残酷な行為に手を染めてしまうことの恐ろしさに警鐘を鳴らしている。
遠藤周作はクリスチャンであり、たとえば代表作の『沈黙』はキリスト教を主題にした作品だが、本作も倫理観を問う小説であり、ぜひ一度読んでみてほしい。(本ブログの感想記事はこちら)
安部公房『砂の女』
谷崎潤一郎や三島由紀夫も「ノーベル文学賞を取り逃した作家」であるが、晩年の安部公房もノーベル文学賞に近い作家だったと言われる。不条理をテーマとすることの多い安部公房の作品は、海外でも高い評価を得ている。
そんな安部公房の作品としては、代表作である『砂の女』(1962年)をおすすめしたい。
安部公房の作品はどれも前衛的で刺激的だが、この作品も不条理で面白い。『砂の女』については以前このブログでも取り上げたのだが、「砂の女」にとらわれる主人公がコロナ禍で自粛するわれわれに近しいものがあるのではないか、などと思ったりもした。現代でも色々な読み方ができる作品であり、ぜひ読んでみてほしい。(本ブログの感想記事はこちら)
井伏鱒二『黒い雨』
先に紹介した『海と毒薬』は戦争の加害性をテーマとした小説だったが、戦争の加害性だけではなく被害性も小説では描かれる。
あくまで私の持論であるが、「日本特有の小説」があるとすれば、その一つは「原爆小説」だろう。言うまでもなく、日本は唯一の戦争での被爆国だからである。
そんな「原爆小説」の中でもっとも有名で、かつ名作と名高いのは、井伏鱒二の『黒い雨』(1966年)だろう。
『黒い雨』は、被爆者である重松静馬の『重松日記』の内容にかなりの部分を依拠しており、一種のノンフィクションであることは確かである。しかし、被爆者であるせいで結婚を逃し続け、次第に原爆症を発症していく主人公の姪・矢須子の現状と、主人公の被爆当日の回想が入り混じった日常と非日常の交差する構成は見事であり、作家・井伏鱒二の凄さを感じさせる。『黒い雨』のテーマに気乗りしない方は、『山椒魚』などの井伏鱒二の代表作をぜひ読んでみてほしい。(『黒い雨』の本ブログの感想記事はこちら)
手塚治虫『火の鳥』
最後にいきなりマンガを出すと非難を浴びそうだが(しかも「文庫一冊以内」の趣旨に大いに反する)、手塚治虫の『火の鳥』は「日本文学」としてもおすすめの作品である。
周知のとおり、『火の鳥』は過去から未来までを題材にした一大長編であり、戦争を体験した手塚治虫の人生哲学も反映された作品であり、広い意味での「文学」であるのは間違いない。
『火の鳥』のように、過去から未来までを一つの軸で描いた作品は、他にあるだろうか? 私は、そのような作品を知らない。
手塚治虫作品の読者は年々減っているかもしれないが、私はむしろ、これからの時代こそ『火の鳥』をはじめとした手塚治虫作品を読み継いでいきたいと思っている。
おわりに
以上、「おすすめの日本文学の名作10選」は、以下のようにおすすめ(順番は時代順)である。
どれも読んで後悔はしないと思うので、ぜひ読んでみてほしい。
- 上田秋成『雨月物語』
- 夏目漱石『夢十夜』
- 武者小路実篤『お目出たき人』
- 谷崎潤一郎『刺青』
- 太宰治『斜陽』
- 三島由紀夫『禁色』
- 遠藤周作『海と毒薬』
- 安部公房『砂の女』
- 井伏鱒二『黒い雨』
- 手塚治虫『火の鳥』
なお、本記事ではすでに物故した作家のみを取り上げたという事情もあるが、女性作家を一人も選ばなかったことについて付記する必要がある。私も現代作家や海外の作家では好きな女性作家は多いのだが、近代の日本文学では残念ながら女性の活躍は男性よりも少ないうえ、また私としても単に近代の日本文学ではあまり好きな女性作家の作品がなかった(樋口一葉、幸田文などよりも紹介した作家の作品の方が好きだった)という理由である。ただし、やや男性中心的な選書であった可能性は否めず、末筆ながらお詫び申し上げたい。