
三島由紀夫のことを、難解な作家だと思っている方は多いだろう。確かに三島の絶筆である『豊饒の海』などに関しては、難解な作品であると評して間違いない。
しかし、三島は難解な作品ばかり書いていたわけではない。こう言ったら三島に怒られるのかもしれないが、三島の小説はどれも文章は美しいが、通俗的なものもかなり多い。これは三島をけなしているのではなく、褒めているのである。三島は純文学の作家としても一流だったが、読者を楽しませる大衆文学の才能も一流で、しかも読者へのサービス精神に非常に富んだ作家であった。
その三島の大衆作家としての魅力が遺憾なく発揮された小説が、『夏子の冒険』や、今回紹介する『命売ります』だ。これ等の作品はシンプルに面白いし、三島由紀夫の美しい文章も楽しめる、誰にでもお薦めしたい小説である。
『命売ります』は、自殺に失敗した男が新聞に「命売ります」と広告を出すところから始まるハードボイルドな冒険譚である。発表当時は通俗小説として、文壇からは認められなかったというが、実際に文壇では評価されないタイプの小説だろう。
だが一方で、『命売ります』を読むと、三島がどのような死生観を持っていたのかも気になってくる。今回はこの作品の魅力を紹介するとともに、『命売ります』で三島が描いた死生観についても考察をしていきたい。なお記事は考察の都合上、ある程度ネタバレを含むので、ネタバレが気になる方はぜひ『命売ります』を読んでからこの記事を読んでほしい。
『命売ります』あらすじ
はじめに『命売ります』のあらすじを簡単に紹介したい。
主人公は、広告会社に勤める27歳のコピーライター、山田羽仁男。ある朝、新聞の活字がすべてゴキブリに見え、世の中が無意味に思えてきた彼は、睡眠薬で自殺を図る。ところが死にきれず、病院で目を覚ましてしまう。
自殺をしそこなった羽仁男の前には、何だかカラッポな、すばらしい自由な世界がひらけた。
そして羽仁男は会社を辞め、新たな仕事を始める。
三流新聞の求職欄に、次のような広告を出した。
「命売ります。お好きな目的にお使いください。当方、二十七歳男子。秘密は一切守り、決して迷惑はおかけしません」
そしてアパートの住所をつけておき、自室のドアには
「ライフ・フォア・セイル 山田羽仁男」
と洒落たレタリングをした紙を貼った。
三島由紀夫『命売ります』(ちくま文庫、11ページ)
すると、奇妙な依頼人たちが次々とやってくる。羽仁男はどうせ捨てた命だとばかりに危険な依頼を引き受けていくのだが、不思議と彼だけが生き延び、代わりに周囲の人間が死んでいく。
しかし物語の後半、命を狙われ追い詰められていくにつれ、死を恐れなかったはずの羽仁男に、ある変化が訪れる……。
三島由紀夫が『命売ります』で描いたもの
ここからは、『命売ります』の娯楽小説としての魅力について書いていくとともに、『命売ります』から読み取れる三島の死生観についても書いていきたい。
大衆作家・三島由紀夫の魅力
ところで『命売ります』は、1968年5月21日号から10月8日号まで、全21回にわたって『週刊プレイボーイ』に連載された。単行本は同年12月に集英社から刊行されている。連載媒体を聞けば察しがつくとおり、これは「女性にモテたい青年」を主な読者として書かれた、れっきとした娯楽小説である。
『命売ります』が娯楽小説であるということを紹介する際に、象徴的な例として挙げたいのが「吸血鬼の未亡人」のエピソードである。
学生服の少年・井上薫が羽仁男のもとを訪れ、自分の母親の愛人になってほしいと頼む。母は吸血鬼で、男の血が必要だというのだ。羽仁男は荻窪の井上家に住み込み、夫人に血を吸われて衰弱していきながら、薫と三人、奇妙ながら仲睦まじい生活がスタートする。この暮らしの結末については、ぜひ『命売ります』を読んで確認してほしい。
三島由紀夫は、SF作品に分類される『美しい星』という小説も書いているように、実は超自然的な存在を作品の中に登場させる作家である。『命売ります』にも吸血鬼が登場するように、三島は読者を飽きさせないように作品にいろいろな仕掛けを施しているのである。
主人公・羽仁男の死生観
しかし、このハードボイルド小説の主人公は、物語終盤に死の恐怖を覚えはじめる。
東京から逃げ出すのが一番だった。その動機はといえば、もう自分に嘘をつく必要はなかったが、明らかに「死の恐怖」そのものだった。
三島由紀夫『命売ります』(ちくま文庫、226ページ)
なぜ羽仁男の死生観が変化したのか、そして羽仁男が何を怖れているのかはかなり本質的なネタバレになるのでここでは言及しない。こちらも本書を読んでみてほしい。
三島由紀夫は本当に死にたかったのか
ここで、三島が『命売ります』で死の恐怖を描いたことと、三島自身の死について考察をしてみたい。
三島は1970年11月25日に市ヶ谷で割腹自決を遂げるが、『命売ります』が書かれたのはその僅か2年前である。こうした背景を見ると、割腹自殺をした三島の死への態度は『命売ります』にも反映されているように思えてくる。
ここからは、あくまで私の読みであるが、私は三島は本当のところ、死が怖かったのだと思う。
『命売ります』で羽仁男が教えてくれるのは、人はじわじわと追い詰められるほどに死が怖くなる、ということである。物語開始当初、羽仁男は平然と死を口にできた。だが、真綿で首を絞められるように死が迫ると、その恐怖は別のものになってくるのだ。
三島は、自分が羽仁男になってしまうことを恐れたのではないか。仮に逃げ場があれば、ためらって死ねなくなってしまう。そうなる前に、自分で退路を断ち、勢いのまま死ぬしかなかった。
市ヶ谷での割腹は、自ら逃げ場をなくすための舞台装置だったのではないか。そう考えることはできないだろうか。
もちろん、三島由紀夫自身は彼の中の論理で、死ななくてはならなかったというのは前提としてある(その死への憧れが、衰えていく肉体への嫌悪や頂点での死への憧憬なのか、政治的な理由なのかはここでは考察しない)。
しかし、三島の死のわずか2年前に書かれた『命売ります』を読むと、死から逃れたいという心理も見えてくるのではないかと思うのである。
重ねて言うように、これは私の意見であり、全く違った読みもできるだろう。興味が湧いた方はぜひ『命売ります』を読んでみてほしい。
おわりに
この記事でも三島の死生観について考えてしまったように、確かに三島由紀夫の文学は哲学とは切っても切れない関係にある。それが三島由紀夫は難解だというイメージにつながってしまっている部分はあるだろう。
だが改めて最初の議論に戻ると、三島由紀夫は読者へのサービス精神も豊富な、優れたエンタメ作家である。三島由紀夫を難しそうだと思い敬遠していた方がいたら、ぜひ本書や『夏子の冒険』を手始めに手に取ってみてほしい。


