国宝

【感想・考察】映画『国宝』喜久雄はなぜ”悪役”ではなく主人公なのか?《俊介との「芸と血」の対比構造》

今更ながら映画『国宝』の感想を書く。私が『国宝』を見たのは、この映画が相当評判になってからのことであった。したがってこの映画が歌舞伎界をテーマにした「芸と血」の物語であるということは前情報として知っていた。

この物語が極道の家に生まれた吉沢亮演じる主人公・喜久雄が歌舞伎界に入るも、梨園の「血」の壁に幾度も阻まれながら、それでも人間国宝へと上り詰めていくというあらすじで、横浜流星演じる御曹司・俊介がライバルであることも知っていた。

そして事前のイメージでは、「横浜流星が演じる役が、自分の生まれを笠に着る嫌な奴なんだろうな…」と思っていた。

しかし、実際に映画を見ると全くイメージが違っていた。むしろ、主人公・喜久雄の方が嫌な奴じゃないかと思った。主人公こそが悪役なのではないかと感じたのだ。しかし、この『国宝』という物語の主人公は喜久雄であり、私のような喜久雄が嫌な奴だと考える人間がいる一方で、それでもなお『この物語の主人公は喜久雄である』という構造に異論を唱える観客はほぼいない。それはなぜなのだろうか?

今回の記事では、喜久雄と俊介がどのように『国宝』という映画で対比されているのかを見ながら、喜久雄が目指したもの、この映画が描こうとしたことについて考察していきたい。なお、私はまだ『国宝』の原作を読んでいないので、ここで書くのはあくまで映画単体の感想ということになる。

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映画『国宝』喜久雄と俊介、どちらに共感できるか

この記事では『国宝』のあらすじ紹介はしないが、基本的に物語の筋に沿いながら、喜久雄と俊介を比較していきたい。

長崎の任侠一家に生まれた立花喜久雄(吉沢亮)は、15歳のときにヤクザ同士の抗争で父を亡くす。しかし、その歌舞伎の才能を見抜いた歌舞伎界の大物・花井半二郎(渡辺謙)に引き取られ、半二郎の跡取り息子である俊介(横浜流星)とライバルとして互いに高め合いながら芸に青春を捧げていく。

喜久雄と俊介の対比

俊介も喜久雄も半二郎のもとで熱心に稽古に励むが、どちらかというと喜久雄の方が熱心である。そして次第に俊介は、梨園の御曹司としての矜持はありながら、才能においては喜久雄に及ばないことを自覚するようになる。だが俊介は、生まれながらの歌舞伎役者である。良いか悪いかは別にして、”血”は俊介を助けることになる。

半二郎は2人に対して言う。舞台で何が起きても、喜久雄のことは日々鍛錬した芸が助けてくれる、俊介のことは血が助けてくれるのだと。

生まれとしては俊介の方が上だが、それでも俊介は、喜久雄の実力を認める。半二郎の代役に抜擢された初舞台を前に一人震える喜久雄に化粧を施す場面には、俊介という人物の誠実さが滲み出ている。

このシーンで喜久雄は俊介に対し、

「めちゃくちゃ酷いことを言うけど。俊ぼんの血がほしいわ」

という。なお、ここまでのシーンでは、喜久雄も非常に人間的な人物として描かれていると思う。だが、喜久雄はこれ以上の芸の高みを目指すには「血」が必要だと考えるようになるのだ。

春江が喜久雄のもとを去る理由

ここで少しだけ物語の時間を巻き戻す。物語の序盤、喜久雄は春江(高畑充希)にプロポーズをする。

しかし春江は「喜久ちゃんは役者。いまが登り坂の大事なとき」と答え、自分が喜久雄の「ご贔屓」になると言ってプロポーズをやんわりと断る。

一見すると、これは春江が喜久雄を振っているシーンである。だが、実際にはどうなのだろうか。プロポーズを断った翌朝、出ていく喜久雄を春江は見送らず静かに布団の中で震える。春江は確かに喜久雄のことを愛しているが、プロポーズを断るのである。

春江はそこで、喜久雄が「それでも結婚したい」ということを期待していたわけではないのではないかと思う。この場面が示すのは、春江はすでに喜久雄の横に自分の居場所はないことを悟っていた、ということだろう。

その後、俊介が喜久雄との才能の差を目の当たりにして喜久雄の舞台の観客席から逃げ出して惨めな姿をさらした時、春江は劇場を出ていく俊介の後を追い、手を握り2人で姿を消した。

この春江の行動が理解しがたいという意見がSNSでバズったのを見たことがあるが、これは個人的には不思議ではない。芸の高みを目指すあまり他者を寄せ付けない存在へと化していく喜久雄ではなく、弱さをさらけ出した俊介を支える道を選ぶ。そういう選択をするのも、自然ではないかと思う。(なおあまり重要でない伏線として、このシーンより前に俊介が春江の家の外で待っている=俊介は春江が好きだったと仄めかすシーンがある)

また、ここで物語は、喜久雄は俊介が継ぐはずだった半二郎の代役を奪い、俊介は喜久雄の彼女である春江を奪うという対照的な構造をとる。

「悪魔にお願い」する喜久雄

春江との別れは、喜久雄が人間味を失い、ひたすら芸の高みを目指す人間に変化するきっかけとしても描かれている。

だが、喜久雄の傍にいる女性は春江だけではない。それが花街の芸妓、藤駒(見上愛)である。

藤駒はもともと、初めて芸者遊びをした喜久雄に対して「二号さんでもいい」と言い寄る人物であった。こう言って言い寄る藤駒が悪いと言えば悪いのかもしれないが、喜久雄は春江と別れたのちに藤駒を内縁の妻とする(正式な結婚はしない)。娘・綾乃も生まれるが、認知しない。

ここで藤駒と綾乃と喜久雄が登場する場面で、印象的なシーンがある。

喜久雄は綾乃とお参りをした際に、「悪魔にお願いしていた」と語る。喜久雄は「芸が上手くなること以外は何もいらない」と語る。もちろん、喜久雄には綾乃に対しても、「いらない」と言っているのだ。喜久雄は歌舞伎での成功のために「悪魔と契約」し、人間味を失っていく。

しかし喜久雄は日本一の歌舞伎役者になりたいという願いとは裏腹に、極道の息子で背中に大きな刺青があることが露見したり、隠し子である綾乃の存在が報じられたりしたこともあり、目覚ましいデビューを飾ったにもかかわらず不遇の時を過ごしていく。

一方、喜久雄との実力差に絶望し歌舞伎界から一度フェードアウトした俊介は、自らの血に助けられて歌舞伎界へと復帰する。

「血」を求める喜久雄

そんな人間味を失った喜久雄が、唯一と言っていいほど激しく感情を表に出す場面がある。

それは、俊介に「血が欲しいから彰子をたぶらかしたのか」と問われるシーンである。

彰子(森七菜)というのは、上方歌舞伎の当主で大物歌舞伎役者である吾妻千五郎の娘である。彰子が自分に好意を持っていることに気づいた喜久雄は彰子に手を出すが、それを千五郎に知られ、歌舞伎界から放逐される。

俊介は、喜久雄が彰子のことを愛していないにも拘わらず、「血」を得るために彰子に近づいたのではないかと疑うのだ。ここで喜久雄は激昂する。

なぜ喜久雄は激昂したのか。それは一つには、俊介の指摘が図星だったからだろう。そしてもう一つには、血を持つものである俊介が、血を持たざるものである喜久雄にそのような指摘をしたからだろう。自分がどれほど血を渇望しているのか、身をもって体感することのない人間である俊介が指摘したことで、激昂したのだ。

歌舞伎界から放逐された喜久雄は、事実上勘当された彰子と一緒に諸国を旅芸人のような形で行脚する。そのような生活をする中で、男の観客に女形が「気持ち悪い」と暴行を受けるシーンがある。

その後、喜久雄はまるでトランス状態になったのかのように屋上で踊るが、彰子に「どこ見てんの」と言われ、愛想をつかされる

喜久雄はどこ見てたんやろと自問自答する。このシーンが物語のターニングポイントとなる。

喜久雄は何を見ていたのだろうか。この場面の解釈は難しく、私の中でもこうだと思うという答えはない。そもそも、このシーンには

①喜久雄が屋上で見ていたものこそ、喜久雄が見たかった景色である
②喜久雄が「どこ見てたんやろ」と自問したのは、喜久雄にとって本来見るべきでないものを思い浮かべて言っている
③喜久雄は屋上で見たかった景色を見ていたが、彰子に問われて自分がこれまで見るべきでないものを見ていたことに気づいた

というような別の解釈が可能だと思うが、どの解釈が正しいのかわからない。

しかし、このシーンで一つ言えるのは、喜久雄は彰子のことは愛していないということである。

このシーンを強いて私なりに解釈するとすれば③である。喜久雄は屋上で踊った時に、トランス状態で芸の極みに到達し「景色」を見た(「景色」とは物語の最後で重要になるキーワードである)。そこで彰子に「どこ見てんの」と問われ(=彰子のことは視界に入っていないことを指摘され)、この指摘によって、この数年「血」を得たいという不純な動機から彰子に近づいて彰子とともに諸国を行脚することになっていたことに気づいた。そして、この不純な動機に自分が邪魔されていたことに気づくのだ。

つまり、ここで喜久雄は「血」という呪縛から逃れることに成功したのだ。この後喜久雄は俊介の手助けもあり、歌舞伎界に舞い戻る。しかし一方で、彰子のことを切り捨てる人間味のなさも描かれる。

俊介の血の呪縛

一方の俊介はというと、父から歌舞伎役者の血を受け継ぐとともに、糖尿病という宿命をも受け継いでしまっていた。「血」を持つがゆえに芸の道に戻ることができたが、その同じ「血」によって肉体が壊れていくという皮肉である。

俊介は片足を切断することになる。だがそれにもかかわらず、俊介は「お初をやりたい」と申し出て、再び舞台に立つことを選ぶ。そして文字通り命を削って舞台に立つ。

ここで喜久雄と俊介の対比は決定的なものになる。喜久雄が芸に身を捧げたのは、「血」を持たないからである。芸でしくじれば、自分の存在を担保するものが何もない。一方、俊介が芸に身を捧げたのは、「血」を持っているからである。家の名前、継ぐべき血脈、その重みから俊介は最後まで逃れられない。喜久雄が「血を持たないから芸に殉じた」のに対し、俊介は「血を持つがゆえに芸に殉じた」のである。ここにも喜久雄と俊介の対称性がある。

歳をとった喜久雄の空虚さ

物語の最後、人間国宝となった喜久雄はインタビュアーから「何が見たいですか」と問われ、「景色」と答える。インタビュアーはあまりにも抽象的な答えに困惑する。

ここで「景色」という答えを喜久雄がするシーンについて、おそらくこの映画を見た観客の中でも意見が割れる部分だと思うが、あえて私の意見を記したい。「景色」が見たいという答えは、常人には到達できない圧倒的な高みであり、その極致を表す言葉として抽象的な表現になったのかもしれない。だからこの答えは美しい答えとしても評価できるだろう。

だが、個人的には喜久雄が空虚な人物であることを示すシーンに思えた。全般的にこの会見での回答は記者へのサービス精神に欠けていて言葉に深みがなく(質問者も喜久雄を順風満帆と評したり頓珍漢なのでサービスしなくても別にいいのだが、語彙力が足りなすぎる)、実際に喜久雄は自分でも何を目指しているのかよく分からなくなっていると思うのだ。

喜久雄は芸のために芸の高みを目指す。他人と比べるわけでも、他者に関心があるわけでもない。そのような人物にとって、最後に残るのは、自分に何が見えるかどうかなのである。芸の極みを目指して人間関係のすべてを犠牲にしてきた末に、彼が辿り着いたのは「景色」という言葉でしか表現できない、輪郭のない場所だったのだ。

なお個人的な感想だが、吉沢亮の演技は素晴らしかったが、どうしても見た目が若すぎるためこのシーンの老年期を演じるには少々無理があるのではないかと思った(さすがに肌がきれいすぎる)。しかし「老いない」、言ってしまえば「人間として成熟しきれていない」という喜久雄の空虚さを示しているとすれば、この演出もまた意図したものなのかもしれない。

人間としての俊介は、たとえ片足を失っても、最後まで春江という伴侶を持ち、子を持ち、人間としての関係性を保ったまま舞台に立った。一方の喜久雄は、人間国宝という称号を手にしながらも、その傍らには誰もいない。彼が手に入れたのは芸の極致だけであり、その芸を見せる相手すらいないように見える。

『国宝』の主人公が喜久雄である理由

では、これほど空虚で、人間として好きになれない人物が、なぜ『国宝』という映画の主人公でなければならないのか。

『国宝』で俊介は「血」を持ちながらもそれに苦しみ、喜久雄は「血」を持たないがゆえに芸に固執した。ふたりは互いに、相手が持つものを求めながら生きた。

しかし、俊介はあくまで「血」と「芸」のあいだで悩み、人間として生きることもできた人物である。物語として描くべきテーマは確かに俊介の中にもあるが、それは出自に恵まれた者の葛藤の物語になる。一方、喜久雄は「血」を持たないがゆえに、ひたすら芸の高みを目指す以外に道がなかった人物である(一度、得られない血を求めようとして回り道をするのだが)。人間としての温かみを次々と切り捨て、最後には何を目指しているのか自分でも分からない領域に到達してしまう。この徹底性こそが、『国宝』という物語が描こうとしたものなのだろう。

人間として好きになれない主人公が、それでも画面を支配し続ける。映画『国宝』の不思議な力は、そこにあるのではないかと思う。

そのことを象徴的に示すのが、新聞記者として実父と再会した綾乃が喜久雄に語る言葉である。喜久雄を父として認知してもらえなかった綾乃は、当然、喜久雄のことを憎んでいる。憎む気持ちで、喜久雄、すなわち花井半二郎の舞台を見る。

だが、舞台を見ると、花井半二郎の美しさに圧倒されてしまうのだ。

そのようなことを綾乃は語る。この台詞は、私にとっては観客の感情を代弁している台詞に思えた。喜久雄が人間的に好人物だとは思えない。それでも、この映画を見ると、吉沢亮の演技や映像美に圧倒されてしまう。

つまりこの映画は、「人間としては受け入れがたい主人公の芸に、それでもなお圧倒されてしまう」という構造そのものを、観客に体験させる映画なのだ。綾乃が憎しみを抱えながらも父の舞台に魅入られるように、観客もまた、喜久雄に共感できないながらもこの物語に魅入られる。この入れ子構造こそが、『国宝』という映画の核なのではないかと思う。

そして、この構造が成立するためには、何よりも映像が美しくなければならない。観客が「圧倒される」体験を実際にしなければ、綾乃の台詞は空虚な言葉に終わってしまう。しかしこの映画は、その高いハードルを見事に、遥か上を飛び越えた。だからこそ『国宝』は映画史上に残る大ヒットになったのだと思う。

おわりに

最後に、俊介と喜久雄を比較すると以下のようになるだろう。

立花喜久雄(吉沢亮)大垣俊介(横浜流星)
出自長崎・任侠一家の息子上方歌舞伎の名門・花井家の御曹司
持つもの圧倒的な才能梨園の血
持たざるもの才能(喜久雄と比べ)
芸への姿勢「血」を持たないがゆえに芸に殉じる「血」を持つがゆえに芸に殉じる
半二郎の代役抜擢される自分の父の代役を奪われる
女性との関係春江を失う春江を伴侶とし、子をもうける
「血」との関係「血」を渇望する父から芸の血だけでなく、糖尿病という宿命も受け継ぐ
代償人間関係のすべて(家族・恋人・友情)肉体そのもの(片足の切断)
終着点人間国宝。傍らには誰もいない命を削って舞台に立ち、芸に殉じる

映画『国宝』は、約3時間という上映時間にもかかわらず(私の感覚ではそれほど長く感じなかったが)、異例のヒットを記録した。その理由の一つには、喜久雄と俊介の対比構造の緻密な美しさがあるのではないかと思う。

また原作小説は映画よりもさらに多くのドラマを内包しているとのことなので、改めて原作を読んで感想も記したいと思う。

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このブログは管理人が実際に読んだ本や聴いた音楽、見た映像作品について書いています。AI全盛の時代ですが、生身の感想をお届けできればと思っています。