- 2021年11月6日
F.S.フィツジェラルド『ベンジャミン・バトン』あらすじ・考察ー名短編のテーマとは?
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私が最も好きな小説の一つであるイーヴリン・ウォーの『Brideshead Revisited』『ブライズヘッド再訪/回想のブライズヘッド』がしばらく前から岩波文庫で品切れになってしまっており(電子版では買える)、非常に悲しい。
重版されることを期待したいが、やはり品切れになってしまったのは、この小説の魅力があまり日本では知られていないからだろう。
以前もこの本についてはこのブログで紹介したことがあるが、今回は少し別の側面から、いかにこの小説が素晴らしいのかを、物語の構造という面から紹介していきたい。なお、記事では物語の構造について考察する都合上、ある程度のネタバレまたは原作を読んでいることを前提とした説明が含まれるので、ご了承いただきたい。
はじめに『回想のブライズヘッド』(Brideshead Revisited)という作品がどのような作品であるのか、簡単に紹介したい。
この作品は、20世紀イギリスの作家イーヴリン・ウォー(1903~1966)による代表作である。
主人公は、チャールズ・ライダーという画家で、第二次世界大戦中に従軍中、軍に接収されていたブライズヘッド邸に再訪(Revisited)するところから始まる。
ブライズヘッド邸は、名門貴族であるフライト家が所有する、いわゆるカントリー・ハウスである。チャールズはオックスフォード大学でセバスチアン・フライトと出会ったことをきっかけに、一家と深く交際することになる。物語前半はオックスフォード時代に出会ったセバスチアンとの関係を中心に、そして物語後半はその妹ジューリアとの関係を中心に回想が展開される。
また、この作品が発表されたのは第二次世界大戦終結の年である1945年であり(日本の敗戦前に出版されている)、英国貴族制の衰退を背景とした回顧的な性格も持っている。ちなみに、作者ウォーは第二次世界大戦従軍中にパラシュート降下に失敗して足を骨折した際にこの小説を書いた。
この小説の大きな魅力の一つは、英国の貴族の没落という「滅びの美しさ」であり、それは私がこの小説に最初に惹かれた理由でもある。しかし、この小説は滅びの美しさも魅力だが、作者ウォー本人が主題としたのは、カトリックの信仰と恩寵である。そして、この物語の構造的な美しさは、やはりこの小説をカトリック小説として見たときに明らかになる。
ここで今更だが作者ウォーについて説明したい。イーヴリン・ウォーは、グレアム・グリーンと並び20世紀のイギリスを代表するカトリック作家として知られている。
イギリスは英国国教会(アングリカン・チャーチ)の国であるが、その中でウォーは少数派のカトリックであり、そのことが作家としての一つの特徴になっている。(なお余談になるが、ウォーはカトリックの信仰をテーマに小説を書いたが、その性格は聖職者のように模範的で穏やかだったというわけではない。ウォーは本来筋金入りの皮肉屋であり、気難しい性格で知られていた)

そもそも、イギリスがカトリック(ローマ教会)から独立したのは、ヘンリー8世の離婚問題がきっかけであるというのは、世界史の授業で教えられる通りである。つまりカトリックでは離婚が許されないが、ヘンリー8世は自身が離婚・再婚をしたいがために、カトリックから離脱をしたのだ。
『回想のブライズヘッド』は、物語後半は主人公チャールズとジューリアの不倫がテーマになる。ジューリアたちはカトリック信徒であり、「カトリックと不倫」が一つのテーマになる。ちなみに、グレアム・グリーンも代表作『情事の終わり』でカトリックと不倫をテーマにしているが、やはりそのカトリック・不倫・愛の描き方には『回想のブライズヘッド』に通底するところがある。
私はカトリック信徒ではないので、宗教的な理解は及んでいない部分もあるかもしれないが、しかしこの小説においてウォーがどのようにセバスチアンとジューリアを対比しようとしたのかは読むことができる。この記事では、セバスチアンとジューリアの対比を軸として、この作品の構造的な美しさを明らかにしていきたい。
『回想のブライズヘッド』は、物語前半はセバスチアンとの友情が、物語後半は彼の妹であるジューリアとの愛が描かれるのだが、この兄妹は似た面もある一方で対比的な描き方をされている。
セバスチアンは物語の前半部分、チャールズのオックスフォード時代に登場する。セバスチアンは美しく魅力的で、テディベアのアロイシアスを愛用するという無垢さを持ちながらも、アルコール中毒に陥り退廃的な生活を送る。一方、ジューリアは物語の後半、チャールズが成人し結婚した後に本格的に登場する。セバスチアンに似た美しさを持った女性として描かれる彼女は、不幸な結婚生活を送りながらも、カトリック信仰との葛藤の中で生きている。
議論に先立ってこの二人を対比すると、以下の表のように整理できる。
| 要素 | セバスチアン | ジューリア |
| 登場時期 | 物語前半(青春時代) | 物語後半(成熟期) |
| チャールズとの関係 | 友情(暗示的な恋愛に近い感情) | 愛情(不倫関係) |
| 性格 | 世俗との関わりから逃避 | 社交界で華々しくデビュー |
| 信仰とのかかわり | 無意識に“聖者”になる | 意識的に信仰に目覚める |
セバスチアンもジューリアもチャールズと深い愛情の関係になるが、最終的にはチャールズと離別することになる。この結末は共通しており、セバスチアンとジューリアは容貌も似ていると作中で示唆されるように、両者は相似した存在である。だが、上に記した通り、セバスチアンとジューリアは対比的な人物としても描かれている。
ここからは個別にセバスチアンとジューリアの人物像について見ていこう。
セバスチアンは物語の中で、純真な人物として表現されている。テディベアのアロイシアスを肌身離さず持ち歩いているのは象徴的である。
彼は入学第一週から、魅惑的な美しさと自由奔放とも見える奇行とで飛びぬけて目立つ存在だったのである。初めて見かけたのはジャーマーズの理髪店での入口でだったが、その時には美しい容姿より、大きなテディベアを抱えていることに驚いたのだった。
『回想のブライズヘッド 上』(小野寺健訳、岩波文庫 54p)
一方で彼はアルコール依存に陥る。だがセバスチアンのアルコール依存は、俗世への拒絶反応とも解釈することができる。セバスチアンは荒廃した家族関係をはじめとした現実の醜さに耐えられず、酒によって現実から逃避する。
オックスフォードで出会ったチャールズとセバスチアンは美しい友情を築くが、セバスチアンのアルコール依存やセバスチアンの母親であるマーチメイン夫人の介入により、次第に距離ができてしまう。
そしてセバスチアンは、アルコール依存症から脱することができず、社会からドロップアウトする。ネタバレになるが、彼は最終的に修道院で身をやつすことになる(具体的な結末はぜひ実際に作品を読んでみてほしい)。
もともとセバスチアンはカトリック信徒であると自認しているが、兄のブライズヘッド伯や末の妹のコーデリアほど熱心ではなかった(それでも、不可知論者のチャールズにはセバスチアンの信仰は奇異に見える)。
「ぼくの一家は宗教的には雑多なんだ。ブライズヘッドとコーデリアは熱烈なカトリックでね。……ぼくとジューリアは異教徒みたいなものさ」
『回想のブライズヘッド 上』(小野寺健訳、岩波文庫 169p)
しかし最終的にセバスチアンは、一種の聖職者として身を捧げることになる。
セバスチアンの「聖性」については、実は作中で末妹のコーデリアがチャールズに対して直接語る場面がある。アフリカで紆余曲折の末アルコール依存に陥ったセバスチアンの末路を語る中で、コーデリアはこう言う。
「ああいう人は神に非常に近いところにいて、神に愛されているんだと思うの。セバスチアンも修道院を出たり入ったりしながら、いつも箒と鍵の束を持ってうろうろしているおなじみの人間として、暮らしていくのよ」
『回想のブライズヘッド 下』(小野寺健訳、岩波文庫 311p)
人間がどう信仰しどう生きるのかと、神の恩寵はカトリックにおいて必ずしも関係がない。フライト家の4兄弟のうち長男のブライズヘッド伯(通称ブライディー:作中ではブライズヘッド邸もブライディーも「ブライズヘッド」と呼ばれるので紛らわしい)は、カトリックの教義に非常に忠実だが、一家の中で最も魅力のない人物として描かれる。そして聖職者としても出世を果たすこともできない。神に愛されるのはブライディ―のような形式的な信仰に篤い人物ではなく、ある種皮肉なことに、アルコール依存のセバスチアンなのだ。
なお余談だが、末娘の名前がコーデリアというと、英国文学に詳しい人であれば、シェイクスピアの『リア王』を想起するだろう。『回想のブライズヘッド』でも、『リア王』が引用されている部分があり、おそらく、ウォーは『リア王』を意識してコーデリアという名前をつけたのではないかと思う。興味のある方は『ブライズヘッド』と『リア王』のコーデリアを比較して読んでみるのも面白いかもしれない。
話を本題に戻す。セバスチアンに対し、ジューリアとカトリックの関係はどうか。
ジューリアの信仰への目覚めは、父親マーチメイン卿の臨終の場面で劇的に描かれる。
マーチメイン卿は結婚するためにカトリックに改宗したが(セバスチアンらの母・マーチメイン夫人はカトリックの名家の生まれだった)、離婚しイタリアに逐電することになる。長年にわたって家族と信仰から離れ、愛人のカーラとともにヴェネツィアで放蕩生活を送ってきた人物である。宗教も妻も捨てたマーチメイン卿の存在は、家族にとって長い間悩みの種であった。もちろん両親の不和は、セバスチアンがアルコール依存症に陥った一因でもある。
しかし、マーチメイン卿が最期に英国に戻り、ブライズヘッド邸で息を引き取る場面で、すべてが一変する。
神を必要としなかったマーチメイン卿が、臨終の床で十字を切るのだ。
ジューリアは、父親の最期の十字のしぐさを見たことによって、神の存在を確信することになる。彼女はそれまで、自分の不幸な結婚生活とチャールズへの愛の間で苦悩し、離婚を考えていた。しかし、父親の死の瞬間に示された信仰の証しを目撃することで、彼女はカトリックの信仰から離れることはできないと決意する。つまり、夫と離婚しチャールズと一緒になることを、断念するのである。
「今までも悪い女だったんですもの。これからもまた悪いことをして、また罰を受けるのでしょう。でも、悪くなればなるほど、神が必要なのよ。わたしには、神の慈悲を閉め出すことはできません……それだけは悪い私にもできないことなのよ。神を相手に、神と対抗できるほどの幸せを選ぶということ」
『回想のブライズヘッド 下』(小野寺健訳、岩波文庫 373p)
この場面でのジューリアの決意は、セバスチアンの無意識的な聖性とは対照的な、意識的な信仰への回帰を示している。
セバスチアンと異なり、ジューリアは意識的な選択によって信仰に回帰する。この意識・無意識というジューリアのセバスチアン対比が、作品全体の対称的な美しさを生み出している。
ここまで、セバスチアンとジューリアが信仰に入ったことについて書いてきた。
ここで一旦、英語版Wikipediaの受け売りになるが、2人に共通する神の恩寵を理解する概念である「twitch upon the thread」(「糸の引き」小野寺健訳では「一本の糸」)という比喩がこの作品で重要になる概念となるので、説明をしたい。
物語の中盤、マーチメイン夫人がチャールズたちに、G・K・チェスタトンの『ブラウン神父』シリーズの一節を読み聞かせる場面がある(『回想のブライズヘッド 上』257p)。この場面では、どのような話をマーチメイン夫人がしたのかは明らかにならないが、物語終盤のコーデリアの回想によって、どのような話がされたのかが読者に明かされる。
「セバスチアンが初めて酔っ払った晩ーーつまりあのひどい晩に、ママが読んでくれた話、覚えてらっしゃるかしら。ブラウン神父っていうのが、『わたしは彼、つまり泥棒を、目に見えない鉤と、目に見えない糸でつかまえたのだ。この糸は長いから、男は世界の果てまでさまようこともできる。だがそれをぐいと一引きすれば男を引き戻せるのだ』って、そんなことを言ったでしょう」
『回想のブライズヘッド 下』(小野寺健訳、岩波文庫 146p)
ウォー自身が後年、この比喩こそが、この小説の核となる神の恩寵についての比喩であると語っているという。人間はいくらでも神から離れて好きに生きることができる。だが神は最後に一度だけ糸を引く。すると、どんなに遠くまで離れた人間も、神のもとに引き戻される。これがマーチメイン家の登場人物それぞれに起きることなのだ。
セバスチアンが北アフリカの修道院に流れ着いたのも、ジューリアが父の臨終の場で信仰に立ち戻ったのも、そして放蕩のうちにヴェネツィアで暮らしていたマーチメイン卿が最期に十字を切ったのも、すべて「糸の引き」の表れだというのである。
セバスチアンとジューリアの対比について見てきたが、忘れてはならないのは、この物語は主人公であるチャールズ・ライダーの回想であるということである。この物語は回想の形をとっているが、チャールズ自身も物語を通じて成長する。もちろん宗教的な面でもチャールズは変化していく。
物語の冒頭、チャールズは不可知論者の青年として描かれる。フライト家のカトリック信仰は、彼にとって理解し難い「異物」だった。
「……わたしには、あなたたちのその宗教というものさえなければ、セバスチアンは幸福で健康な人間になれるんじゃないかと思えるんです」
「あるいはね」とブライズヘッドは言った。
『回想のブライズヘッド 上』(小野寺健訳、岩波文庫 282p)
しかしセバスチアンとの友情、そしてジューリアとの愛を通じて、彼は次第にカトリックの世界に惹かれていく。
物語のラスト、第二次世界大戦中の軍人として再び軍に接収されたブライズヘッド邸を訪れたチャールズは、そのチャペルで聖壇の灯りが燃え続けていることに気づく。作中でチャールズが改宗したと明示的に描かれることはないが、この描写から分かるのは、チャールズもまたカトリックの教義を学んでいたということである。このシーンは後ほど引用する。
セバスチアンの無意識的な聖性、ジューリアの意識的な信仰回帰、そして対照的な二人を見届けたチャールズ自身の改宗。この三角形が完成して、はじめてこの小説の対比構造は完結する。
ここまで何度も登場してきたブライズヘッド邸は、『回想のブライズヘッド』において単なる舞台背景ではなく、物語の主題を体現する象徴的存在である。
物語前半、ブライズヘッド邸はセバスチアンとチャールズの楽園のような空間として機能する。しかし、セバスチアンの問題が深刻化するにつれて、母親マーチメイン夫人の存在が強くなり、ブライズヘッド邸の宗教色は強まっていく。そしてマーチメイン卿の死の場面において、ブライズヘッド邸は救済の舞台となり、信仰の象徴となる。
さらに印象的なのは、物語の結末に登場する邸宅のチャペルである。
この屋敷には、まだわたしの行ったことがない場所が一つあった。今、わたしはそこへ足を向けた。礼拝堂は長いあいだ閉鎖されたまま放置されていたのに、少しも荒れていなかった。今世紀初頭のアール・ヌーボー風の壁の装飾は今もなお色あざやかだったし、祭壇の前では、これもアール・ヌーボー風のランプがふたたび炎をあげていた。
わたしは遠い時代からの、しかしわたしとしてはおぼえたばかりの、祈りの言葉を唱えてから、宿営地にもどった。
『回想のブライズヘッド 下』(小野寺健訳、岩波文庫 386p)
こうしてチャールズはブライズヘッド邸で唯一行ったことのなかった場所に行く。
そして「遠い時代からの、しかしわたしとしてはおぼえたばかりの、祈りの言葉」(an ancient, newly-learned form of words)つまり、聖句を最近覚えた=チャールズがカトリックについて学んでいることが示唆されて物語は幕を閉じる。
ここまで『回想のブライズヘッド』の精巧な対比構造について書いてきたが、一方でこの作品の構造が真に「完璧」と呼べるものかどうかというと、いくつか問題点もないとはいえない。
やはり日本の読者からすると、ジューリアの信仰への目覚めは(いくら象徴的な出来事があったからとはいえ)唐突に思える。
同時代のウォーの小説家仲間のヘンリー・グリーンも、「最後のシーンは私には受け入れがたかった。ご想像の通り、臨終の場面の間中、私は心臓が口から飛び出しそうな思いで、あの老人が(カトリックの信仰に)屈してしまわないでくれと、望み薄ながら祈り続けていたのだ」(The end was not for me. As you can imagine my heart was in my mouth all through the deathbed scene, hoping against hope that the old man would not give way, that is, take the course he eventually did.)とウォーに書き送っているという(英語版Wikipediaより)。
こうした批判は、特にカトリックの信仰を共有していない読者からすると、共感できる部分も多いだろう。私自身、初読時にはジューリアの突然の信仰回帰と、それによるチャールズとの別離は唐突に感じたものだった。
それに同時代人としては、痛烈な皮肉とブラックユーモアで知られたウォーの作品としてはあまりにも美しすぎるので、違和感を覚えた従来のウォーのファンも多かったと思われる。
だが物語の中で、チャールズ自身もジューリアの選択に困惑するのだ。チャールズの困惑が描写されるように、ジューリアの信仰への目覚めが唐突であることは、当然作者であるウォーも自覚していただろう。
しかし、その「理解しがたさ」こそが、相手(=カトリック)を知りたいという欲望につながるという部分はあるだろう。
私自身、『回想のブライズヘッド』という小説を読んだときに、ジューリアの唐突な選択は理解しがたかった。しかしそれゆえに、「カトリックと不倫」というテーマに興味を持った。ジューリアの回心には違和感があるが、もしかすると、ウォーはそのような効果も狙ったのではないかとも思う。
またこの小説については、実は作者ウォー自身が自己批判を述べている部分がある。その最も大きな部分は、この作品の過度に華美な文体である。ウォー自身も序文で次のように書いている。
「それ(執筆当時)はすでに現実になっていた貧困と目前の災難の不安につつまれた、寒々とした時代ーー大豆と、乏しい語彙しかない、まるで語彙を制限したあの簡易英語の時代だった。そのために、この小説には食べものや酒、わずか前まではあった華やかな生活、凝った美しい言語表現などへの貪婪な欲望が全体に浸透する結果になった。それが、飽食している今のわたしには悪趣味に思える」
『回想のブライズヘッド 上』(小野寺健訳、岩波文庫 10p)
ウォーがこの小説を書いていたのは、戦時下のイギリスで食料配給が厳しかった時代であり、彼自身が空腹に苦しんでいた時期だった。だからこそ、ブライズヘッド邸での豪奢な食事や、貴族たちの優雅な生活への描写が、ある意味で「飢えた人間の幻想」として書かれてしまったとウォーは言う。
しかし、この過度に華美な文体は、一方ではこの小説の無二の魅力にもなっている。ウォーの過ぎ去った時代への過剰なまでの郷愁こそが、この小説に独特の魅力を与えているからだと思う。ウォーが後年「不快」と感じた装飾的な散文こそが、滅びの美しさを際立たせているのだ。
ここまで『回想のブライズヘッド』という小説について書いてきたが、やはり改めてこの作品を再読して思うのは、この作品が紛れもない名作であるということである。興味のある方は、ぜひ一度読んでみてほしい。
そして岩波書店には早く重版をかけてもらいたいと思う。