
クリストファー・ノーランの最新作『オデュッセイア』を見た。言うまでもなく、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』の映像版である。
あらすじの大枠は、この2500年以上前の叙事詩の内容に沿っており、いわゆる「トロイの木馬」を発案してトロイア戦争の勝利の立役者となった英雄でイタケの王・オデュッセウスが、故郷に帰還するまでの約10年の物語である。一つ目の巨人キュクロプスや、人を動物に変える魔女キルケー、航海者を誘惑するセイレーンなど、作中のモチーフはほぼホメロスの叙事詩の通りである。
しかし、ノーランはホメロスの叙事詩をそのまま映画化したわけではなく、いくつかの要素を追加している。そして結論を言えば、その要素は前作『オッペンハイマー』とも重なる要素である。
今回の記事では、ノーランがどのようなことをこの映画で描こうとしたのかを、ホメロスの『オデュッセイア』とも比較しながら考察していきたい。この記事では、ホメロスの叙事詩になじみがないという方にも、映画の理解の助けとなるように、原典の筋や背景についても適宜補いながら書いていく。
なお、この記事は映画と原作を比較するという性質上、ある程度のネタバレは含む。
『オデュッセイア』作品概要・あらすじ
『オデュッセイア』概要
はじめに、この作品の概要について簡潔に説明をしたい。この作品はクリストファー・ノーランの『オッペンハイマー』に続く長編映画である。
映画の特徴としては、この作品が商業映画史上初めて全編IMAXフィルムカメラで撮影されたことが挙げられる。オデュッセウスをマット・デイモン、妻ペネロペをアン・ハサウェイ、息子テレマコスをトム・ホランドが演じ、求婚者アンティノオスにロバート・パティンソン、女神アテナにゼンデイヤ、ヘレネにルピタ・ニョンゴと、現代のハリウッドを代表する顔ぶれが揃っている。
ちなみに、ノーランは2017年に刊行されたエミリー・ウィルソン(Emily Wilson)による『オデュッセイア』の英訳を読み、その体験が映画製作につながったという。この訳は女性による初の『オデュッセイア』英訳として話題になった訳で、平易な現代英語と、原文と同じ行数に収めるという方針が特徴だという。後述の通り、映画の台詞が全編を通して平易なことにも影響していると思われる。
ちなみに、このエミリー・ウィルソン訳の『The Odyssey』は日本でもKindle等で購入可能である。エミリー・ウィルソン氏について調べてみると、かなり面白い人のようで、古典学者なのに(というと偏見かも知れないが)両腕にタトゥーがびっしり入っていたりする。この人物には後ほどもう一度言及する。
『オデュッセイア』あらすじ
というわけで、ホメロスの『オデュッセイア』について触れたが、この作品について簡潔にあらすじを紹介したい。
『オデュッセイア』という物語の舞台は、オデュッセウスが活躍したトロイア戦争から10年後である。『オデュッセイア』のあらすじを知っていればこの映画の時系列の理解に困ることはないが、知らないと少し(映画の冒頭で)混乱するかもしれないので、ここで映画の時系列について簡単に書いていきたい。
なお、物語の中で時系列を混在させるのはクリストファー・ノーランの常套手段だが、この映画に関してはノーラン自身が発案したのではなく、そもそものホメロスの原典自体の構成を踏襲しているといえる。
この作品の時系列としては「イタケの現在」「帰還の航海」「トロイア戦争」の三つが並行して描かれるという構造になっている。
主人公のオデュッセウスは約20年前にトロイア戦争に出征し、そこから10年後にオデュッセウスが「トロイの木馬」を発案したことで勝利したが、帰路の航海で遭難するなどし、戦後10年が経っても領地であるイタケに帰還できていない。
イタケでは、妻ペネロペが、息子テレマコスと共に夫の帰りを待っている。だが王の不在が長引くにつれ、王妃の座を狙う”求婚者”たちが宮殿に居座り、財産を食い潰していく。訪問者はもてなさなければならないという「ゼウスの掟」のために、ペネロペたちは無法者たちをもてなさないといけないのである。そんな中で、テレマコスは父の消息を求めて旅に出るが、その道中で”求婚者”たちに命を狙われることになる。
一方のオデュッセウスは、この頃(物語開始当初の「現在」)はニンフであるカリュプソの島に囚われている。映画では、オデュッセウスは蓮の花(ロータス)を口にすることで記憶を失っているが、次第に航海の記憶を取り戻す。回想の中で、一つ目の巨人キュクロプス、巨人族ライストリュゴネス、魔女キルケー、船乗りを誘惑するセイレーン、六つの頭を持つスキュラといった航海の苦難が描かれる。
さらに遡ると、トロイア戦争の記憶がある。オデュッセウス自身が「トロイの木馬」を発案し、敵を欺いてトロイの城門の中に忍び込んで城を一夜にして落とした。その一夜の記憶が挿入される。
映画『オデュッセイア』感想
ここからは、本題として「ノーランは『オデュッセイア』の映画化で何を付け加えたのか」ということについて考察していくために、前置きとして映画『オデュッセイア』の感想を記したい。
『オデュッセイア』感想|見知ったストーリーとキャストの強さ
初めにこの映画についてのごく簡単な感想を書いていきたい。
やはりこの映画を見て思ったのは、『オデュッセイア』という西洋文学の古典の、物語としての魅力の強さである。そしてその物語を、現代の映画界において最も売れている監督と言ってよいクリストファー・ノーランが描き出すということの価値は間違いなく大きい。
映画を見て再認識したのは、ホメロスの2500年以上前の叙事詩が、現代のカルチャーにも大きな影響を与えているということである。奇しくも映画『オデュッセイア』が公開されたのは、日本ではもう一つの「セイレーンが出てくる映画」である『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』がヒットを記録していた頃である。当然ながらセイレーンの元ネタは『オデュッセイア』にある。また他にも、船員を豚に変える魔女キルケーも、主人公の両親が豚に変わる『千と千尋の神隠し』に通じるところがある。
そんなある意味で「なじみのあるストーリー」のこの映画は、俳優陣もなじみのある面々が出て来る。現代最高峰のキャストが集結していて演技には申し分ないのだが、一方で正直なところキャストに新鮮味がないというのは感じた。マット・デイモンにアン・ハサウェイ、ロバート・パティンソン、トム・ホランドとゼンデイヤの夫婦など、知っている顔が出てくる。
しかし、このような「見知ったストーリー、見知ったキャスト」を飽きることのない映画に昇華させているのは、ノーランの構成力と映像の強さゆえだろう。先述の通り、この映画は全編IMAXフィルムカメラで撮影された映画であり、映像に関しては文句のつけようがない。
『オデュッセイア』感想|公開前に話題になった2つの論点
またこの映画に関しては、ノーランの新規性として、日本での公開前から2つの論点が話題になっていた。本題に入る前に、この2点についても感想を記したい。
一つは、黒人をはじめとするあらゆる人種の俳優が起用されていたことである。イーロン・マスクなどはこのような配役に批判的であった。
しかし、私個人の感想としては、黒人のキャストは必ずしも違和感のあるものではなかった。そもそも『オデュッセイア』は地中海を舞台にした作品であることを考えれば、アフリカ系のキャストが登場することに大きな不自然さはないような気もする。むしろ私たち日本人として批判するのであれば、結局黒人俳優は多数起用されていたとはいえ、アジア人はほとんど起用されず、しかもかなり「愚か」な役を担当していることではないかと思う。おそらく作中で、最も目立ったアジア系のキャストは、セイレーンにただ一人惑わされ命を落とす船員ではなかっただろうか。
そしてもう一つ、この作品が全員現代アメリカ英語のアクセントを話すということも話題になっていた。基本的に時代劇ではイギリス英語を話すという作法が英語圏にはあるようだが、この慣習に今回の映画は従わなかったということだろう。確かに私も字幕版で見ていて、かなり平易な英語を話しているように感じた。日本に置き換えたら、時代劇で口語や外来語を含んだ言葉が多用されているような感覚なのだろうと思うし、それに対し批判が出るのは確かに理解できる。しかし、私はネイティヴでないので、この違いはよく理解できないし、これに対しては批評しない。
ちなみにホメロスの叙事詩の日本語訳としては、「なんたる言葉がそなたの歯垣を漏れたことか」といったような「歯の垣根」などの独特の形容句が特徴である。原作の『オデュッセイア』に興味を持った方は、こういった言い回しも楽しんで読んでほしいと思う。
『オデュッセイア』感想|この映画が描いた倫理
そして、ここでも先ほど触れたホメロスの『オデュッセイア』の翻訳者、エミリー・ウィルソンにもう一度触れたい。
彼女のことについて検索してみると、実は彼女は自分の訳がきっかけで生まれた映画に対して、かなり厳しい評価をしていた。エミリー・ウィルソンはノーランが一般の読者に『オデュッセイア』を再び読ませようとしている点については感謝すると述べる一方で、この映画には心理的、感情的、政治的、倫理的な深みが欠けている、という趣旨の批判をしている(出典:LBC)。
これはこの映画の根本に触れる厳しい批判だと思う。なぜなら、ノーランがこの映画で原典に付け加えたものは、まさに倫理の問題だからである。では、ノーランはこの映画でどのような倫理をつけ足したのか。
映画『オデュッセイア』考察
ここからは本題として、ノーランが原作に加えたものについて記していきたい。初めに考察したいのが、ノーランがこの映画で追加した登場人物である。
『オデュッセイア』考察|ノーランが加えた登場人物・シノン
この映画で重要な役割を果たすのが、シノンという人物である。エリオット・ペイジが演じるイタケの若者で、木馬を「贈り物」としてトロイア人に差し出し、城内へ引き入れさせる役目を負う。
シノンという人物は、実はホメロスの叙事詩には登場しないが、同じくトロイア戦争を描いた古代ローマの詩人ウェルギリウスによる叙事詩『アエネーイス』に登場する。そこでシノンは木馬を城内に入れるよう仕向ける人物として描かれるという(私は『アエネーイス』は読めていないので詳細な言及は避ける)。つまり、複雑な説明になるが、シノンはホメロスの『オデュッセイア』には登場しない人物だが、その存在自体はノーラン自身の創作というわけではない。しかし、この映画におけるシノンの人物像はノーランが創作している。
ノーランはなぜ、シノンという人物を映画で大きく扱うことにしたのか。その理由の一つは、ロバート・パティンソン演じるアンティノオスに「悪役」としての説得力を持たせるためだろう。若きアンティノオスは、トロイア戦争に従軍する役目を、シノンに押し付ける。そしてシノンは戦争で命を落とし、アンティノオスは生き延びる。卑劣で、自らの武勇はないが狡賢い悪役というアンティノオスの造形を際立たせ、物語最後のカタルシスを高めるために、シノンの善性は強調させている。
しかし、もう一つの理由としては、オデュッセウスの「原罪」もシノンという人物を登場させることで際立たせたかったのではないかと思う。
『アエネーイス』において、シノンはトロイの木馬を城内に引き入れるために敵を騙す、いわば熟練の嘘つきであるという。しかしノーランはシノンを「敵を欺く人物」ではなく「味方に欺かれた者」として描き直している。映画においてシノンは、木馬の中に兵士が隠れていることを知らされていない。オデュッセウスはシノンのことを信頼はしていたが、そのことを知らせたことによって情報が洩れる可能性を考え、シノンには事実を知らせなかったのだ。
オデュッセウスは、シノンを欺いたことを悔いる。勝利を収めるためには敵だけでなく味方をも欺かないといけない。これが物語でオデュッセウスが背負っている「原罪」の一つである。
そしてここで、この映画の人物配置が一つの対比構造を描き出す。従軍をシノンに押し付けたアンティノオスと、策のために味方であるシノンを欺いたオデュッセウス。他人を、しかもシノンという同じ人物を犠牲にして自分が生き延びるという点で、2人は同じことをしている。
だが、2人には決定的な違いがある。アンティノオスは自分がした過去を消そうとする。一方のオデュッセウスは、自分が何をしたかを知っており、その記憶に囚われている。その自覚こそ、主人公と悪役の差であろう。
『オデュッセイア』考察|ゼンデイヤ演じる女神は何者だったのか
そしてもう一つ、この映画において重要になるのが、ゼンデイヤ演じる女神である。
ホメロスの叙事詩にはオリュンポスの神々が出てきて、オデュッセウスの命運も神々の会議で決められる。しかし映画では、神々の会議は出てこない。ゼウスやポセイドンといった神々の名前は登場するが、実体は登場しない。
神の中で唯一スクリーンに姿を現すのは、ゼンデイヤが演じる女神である。映画を見ていて、私は途中までこの女神を運命の女神(モイラ)のような存在だと思って見ていた。オデュッセウスが決断するときに、オデュッセウスの傍らに立って行く末を見届ける、運命の化身のように見えたのだ。
しかし、物語終盤にこの女神の正体がわかった。正体を隠したオデュッセウスがペネロペにトロイア陥落の夜を語る場面で、ギリシア兵がアテナの神殿を燃やし巫女を殺すシーンが回想される。その巫女を演じているのも、ゼンデイヤである。巫女の首が落ちる瞬間に、アテナ像の首が落ちるカットが重ねられる(アテナ像の首が落ちるカットは、このシーンよりも前にも断片的に登場する)。
ここでゼンデイヤ演じる女神はアテナの化身であるという答えが出る。しかし同時に、彼女は女神ではなくオデュッセウスが作り出した幻影(つまり巫女の霊のような存在)なのではないかという解釈も生まれる。
だが、どちらにしても答えはあまり変わらないような気もする。女神であれ幻影であれ、オデュッセウスは自分の殺した相手の顔をした存在に囚われている。ゼンデイヤ演じる女神は、物語中盤までも、決してオデュッセウスを導いていたのではない。オデュッセウスが重要な決断(つまり、部下が命を失うかもしれない選択をしなければならない時)に彼の横に現れ、その罪を思い出させるを存在である。
なおホメロスの叙事詩では、アテナは度々姿を変えてオデュッセウスやテレマコスの前に姿を現し、彼らを導く存在である(映画でも示唆されるとおりオデュッセウスはポセイドンには嫌われているが、彼に助力する神も多い)。ゼンデイヤの役名はアテナだったが、女神アテナの造形もノーランの映画と原典とでは大きく異なると言える。
『オデュッセイア』考察|木馬という「贈り物」とゼウスの掟
つまり、この映画でノーランが新たに付け加えた人物として大きいのはシノンとアテナだろうが、どちらもオデュッセウスの罪を明らかにするために追加された人物である。
オデュッセウスはシノンを欺き、アテナに仕える巫女を殺した。だが、作中でオデュッセウスが犯したより大きな罪がある。それが、映画で繰り返し口にされる「ゼウスの掟」を破ったことである。
この「ゼウスの掟」は実在したもので、古代ギリシアでクセニアと呼ばれた、客人をもてなす者ともてなされる者との間の掟を指す。旅人は迎えて食事を与え、贈り物を持たせて送り出さないといけないというもので、この関係を破る者はゼウスに罰される。「ゼウスの掟」は、ホメロスの叙事詩でも中心的な倫理である。映画でも同様、イタケの求婚者たちは、ゼウスの掟を利用してオデュッセウスの館に居座っている。
だが映画『オデュッセイア』では、オデュッセウスこそが「ゼウスの掟」を逆手にとって相手を騙すという行為を最初に行う。オデュッセウスが神への供物である木馬を使って敵を騙し、一つの街を滅ぼしたのだ。
なお厳密に言えば、トロイア人が木馬を城内に入れたのは、客としてもてなしたからではなく、神への奉納物だと信じたからである。ただし映画はこの二つを区別せず、まとめて「ゼウスの掟」と呼んでいる。相手が差し出すものを疑わずに受け取る、という信頼の形が同じだからだろう。贈与とは、本来相手との信頼関係を保証するものだった。オデュッセウスはその「贈り物だから受け取る」という信頼そのものを武器に変えてしまったのである。
ちなみにオデュッセウスの船団は、終戦後に最初に訪れた街で、歓待されなかったために掠奪をする。そこで村の老人に船員は「ゼウスの掟を知らないのか」と問う。このシーンは、ホメロスの叙事詩にはおそらくない部分である。映画はこれを、木馬によって破られた「ゼウスの掟」がオデュッセウス自身に返ってくる出来事として配置しているように見える。「ゼウスの掟」は崩れ、船団は歓待されなくなってしまう。そしてオデュッセウスは帰還することができなくなり、イタケでもゼウスの掟が悪用されるようになる。
ここまで来ると、この映画が『オッペンハイマー』の続篇のようなものだということが見えてくる。知恵に優れた男が道具を発明するが、それは本来発明してはいけないもので、それが世界のルールを壊してしまうのだ。
『オデュッセイア』が描く帰還兵のトラウマ
このようにオデュッセウスはあらゆる罪を犯し、それに苦しむ。それが映画『オデュッセイア』でノーランが描いたことである。
ところで、この作品は日本では9月11日に一般公開され、私はその日に見た。つまり、9.11の同時多発テロから25年という日に、私は映画『オデュッセイア』を見た。その日付を意識していたせいもあるかもしれないが、トロイア陥落の場面で崩れ落ちていく塔を見たとき、崩れ落ちるワールドトレードセンターの映像を思い出した。もちろん9.11とそれに続くアフガニスタン紛争・イラク戦争、そしてトロイア戦争が、この構図で符合するわけではない。しかし、この映画にとって帰還兵のトラウマは一つのテーマだろう。
それを端的に示しているのが、蓮の花(ロータス)である。映画のオデュッセウスは、蓮を口にして記憶を失っている。原典において蓮を食べるのは部下たちであり、オデュッセウスは彼らを航海に引き戻す側だった。だがノーランの映画では、オデュッセウスが記憶を失う側に回る。
つまりこの映画は、忘れようとする男に思い出させる物語として組み立てられている。オデュッセウスはペネロペとテレマコスの存在を思い出して妻と息子のもとに帰らなくてはならないが、そのためには自身の戦争体験も思い出さないといけない。なぜオデュッセウスは戦争体験を思い出すのに苦痛を伴うのか。それは自身のせいで命を失うことになった部下に加え、シノン、そしてアテナの巫女、トロイアの人々に対してオデュッセウスは罪を背負っているからである。
もちろん、オデュッセウスは戦争に勝つために必要なことをしたまでである。戦時の判断としては責められるものではないし、木馬がなければ戦争はさらに続いていた。オッペンハイマーと同じ面はある。だが彼が破ったのは、戦争の勝ち負けとは別の次元にある世界の理だった。勝利のために、世界の前提を根本から変えてしまったのだ。だからこの罪は、戦争が終わっても消えない。
ちなみに、ホメロスの原典にも戦争のトラウマのようなものは実は描かれている。『オデュッセイア』第8歌で、歌人デモドコスが木馬とトロイア陥落を歌い出す。それを聞いたオデュッセウスは、顔を覆って泣く。
オデュッセウスは打ち萎がれて、瞼に溢れる涙は頬を濡らした。
ホメロス『オデュッセイア(上)』(岩波文庫、松平千秋訳)213ページ
オデュッセウスは、自身の活躍と勝利を歌われるのにもかかわらず、悲嘆にくれて涙を流す。この場面でオデュッセウスが泣くのは、自分で思い出したからではない。他人が歌うのを聞き、忘れていたいのに、宴の席で自分の戦争を聞かされてしまうからだ。映画がテーマとした「記憶」は、原典でも描かれていると言える。
なお『オデュッセイア』をPTSDの物語として読む試みには先行例がある。アメリカの精神科医ジョナサン・シェイが、ベトナム帰還兵の臨床経験をもとに『アキレウスのヴェトナム』と『オデュッセウスのアメリカ』を書いている。後者はまさに、戦場から帰った兵士がなぜ社会に帰り着けないのかを『オデュッセイア』に重ねて論じたものである。これらの議論はオデュッセイアをめぐる議論として存在していることは指摘できる。
おわりに
ノーランが『オデュッセイア』に加えたものを整理すると、ほとんどが一点に収束する。オデュッセウスに罪を負わせることである。
何も知らずに死ぬシノン、殺された巫女の顔をした女神、掟を破る側に回った木馬、そしてそれらの罪を忘れるために蓮を食べる男。どれも原典にないか、原典とは違った方向性が付与されたものである。ホメロスのオデュッセウスは神々に翻弄される一種の被害者だが、ノーランのオデュッセウスは、自身の過去の加害に囚われる人物である。
つまり、ノーランはオデュッセウスを翻弄するものが何なのかを変更しているのだ。ホメロスの叙事詩で、オデュッセウスが帰還できないのは、神(ポセイドン)の怒りゆえだった。しかし映画では、オデュッセウスは、自身の罪ゆえに帰ることができなくなる。
結末も変えられている。原典のオデュッセウスは、求婚者を討った後にもう一度旅立つよう預言されるが、その行き先は内陸であり、しかも最後にはイタケに戻って穏やかな老年を送ることを約束されている。ノーランはこれを、二度と戻らない西への航海に変えた。罪を清算して家に落ち着く話ではなく、罪を抱えたまま家にはいられないとして去っていく話にしたのである。
この映画に心理的・倫理的な深みがない、というエミリー・ウィルソンの批判に戻ろう。確かにこの映画は、原典の細部の多くを切り落としている。それにノーランの映画でオデュッセウスが深く悔悟するのかというと、最後のシーンを除いてはそうではないかもしれない。
だが、それはこの映画が倫理を浅く扱っているということではなく、倫理の置き場所が違うということだと思う。ノーランは罪を、オデュッセウス個人の内面の問題としては描いていない。彼が描いたのは、木馬によって「ゼウスの掟」という社会の約束事が壊れ、その壊れた世界がイタケにまで及んでいるという構図である。
この映画でノーランは、相手の信頼やルールを破ること、倫理からはずれた暴力を行ったこと、そしてその報いを描いている。発明すべきではなかった木馬を発明したオデュッセウスと、生み出されるべきでなかった原爆を作ったオッペンハイマーに重なるものである。暴力を有するものが有利になり、相互の信頼が意味をなさない現代の世の中を、ノーランは批判しているのではないかと思う。