
恋愛リアリティショーにしろ、『水曜日のダウンタウン』の「名探偵津田シリーズ」にしろ、最近の映像コンテンツの中には、“現実”が舞台装置の中で演じられるものが多い。私たち視聴者はこういった番組に共感したり笑いながら、傍観者あるいは神の視点で物事を見ている。しかしふと思うのだ。結局、私たちの人生も誰かの筋書き通りになってしまっているのではないか?と。
そんな時に思い出すのが、リアリティ番組という言葉すら一般的でなかった1998年に公開された映画『トゥルーマン・ショー』である。
ピーター・ウィアーが監督を務め、ジム・キャリーが主演を務めたこの名作について今回は紹介していきたい。なお、記事にはネタバレを含むので、『トゥルーマン・ショー』を新鮮な気持ちで見たいという未視聴の方はまずは実際に映画を見てからこの記事を読んでほしい。
『トゥルーマン・ショー』あらすじ
主人公トゥルーマン・バーバンク(Truman Burbank)は、生まれた瞬間からその人生のすべてをテレビ番組として全世界に生中継されている人間である。しかし、当の本人はそのことをまったく知らない。
トゥルーマンが暮らすシーヘイブンという島は、実は巨大なドーム型のスタジオである。
空も海も人工物であり、彼の妻も、親友も、隣人も、町を行き交う人々も、すべては決められた筋書きに従って演技をする俳優やエキストラなのだ。番組『トゥルーマン・ショー』はすでにトゥルーマンの誕生から約30年も放送が続いており、その視聴者は世界で10億人を超えている。
トゥルーマン自身は平凡な保険会社員だが、陽気な人物で、
おはよう! それと、会えなかったときのために、こんにちは、こんばんは、おやすみ!
(『トゥルーマン・ショー』より)
と毎朝近所の人に声をかけて出勤する。(当然、その姿もバケツに隠されたカメラに隠し撮りされ、全世界に配信されている)
そんな普通の人生を送っていたトゥルーマンは、ある日空からスタジオ照明が降ってきたことをきっかけに、自分を取り巻く世界の違和感に少しずつ気づいていく。
トゥルーマン・ショーが描いた現実
ここからは『トゥルーマン・ショー』の中盤以降のあらすじについても触れながら、この作品について考察していきたい。
トゥルーマンと妻との関係
『トゥルーマン・ショー』を観て、一種のうすら寒さを覚えるのは、トゥルーマンの人間関係がすべて作りものだということである。
トゥルーマンには妻がいる。それがメリルという女性で、二人は家庭を築き、夫婦の寝室まで与えられている。もちろん2人の間には性的な関係もあるのだろう(そのようなシーンになりそうになるたびに、ここから先はいつも見れないと視聴者は残念がる)。
しかし、トゥルーマンの妻としての人生を生きているメリルも、俳優なのだ。実はメリルは役名で、本名はハンナ・ジルという。
メリルは、日常の何気ない会話の中に、唐突に新製品の宣伝文句を差し込むことがある。新しいキッチン用品やココアを、まるでテレビショッピングのように笑顔で紹介するその姿は、メリルの茶目っ気ではないかと最初は思うのだが、真相は視聴者向けのコマーシャルである。このCMこそ、番組「トゥルーマン・ショー」が収益を得る仕組みである。
つまり、メリルがトゥルーマンと夫婦生活を送るのは仕事に過ぎず、メリルはもちろんトゥルーマンと生活する一方で現実世界からの指示も受けているのだ。メリルにいつ休日があるのかは、映画の中からは分からない。
メリルはなぜ子どもを欲しがるのか
そんなメリルは、作中で繰り返しトゥルーマンに子どもを作ろうと持ちかける。トゥルーマンの母親もまた、二人にしきりに孫の顔が見たいと迫る。
この理由は作中で明示されることはないが、一体なぜメリルは子どもを欲しがるのだろうか。おそらくそれには、以下のような理由がある。
もしシーヘイブンでトゥルーマンの子どもが生まれたら、どうなるか。その子はおそらく、父親と同じように、自分の人生が中継されていることを知らないまま育てられるだろう。つまり、生まれてくる子こそが次の「トゥルーマン」となり、番組は世代を超えて永遠に続いていくのである。
そしてもしかしたら、子どもが生まれたトゥルーマンは真相を知らされ、キャスト側に回ることになるかもしれない。あるいは、メリルは役目を果たしたとして、物語から退場することができるかもしれない。後述するトゥルーマンの父親が偽装された「死」によって、シーヘイブンから退場したように。
メリルの「子どもが欲しい」という言葉は、個人として(すなわち、ハンナ・ジルとして)子どもが欲しいという願望ではない。それは、赤ちゃんという装置を再生産することによって、仮りそめの夫婦生活から逃れたいという願望なのだ。
では、この結婚生活までをも設計したのは、いったい誰なのか。
創造主・クリストフ
シーヘイブンの創造主にして、トゥルーマンの人生の筋書きをすべて作ってきた男こそ、この番組の生みの親であり総監督であるクリストフという男である。
クリストフは作中で「私は創造主だ」と言い放つ。クリストフ(Christof)という名前が「Christ(キリスト)」を想起させるように、クリストフはまさに神のような存在である。ちなみにトゥルーマン(Truman)は「True Man(真実の男)」を想起させるように、シーヘイブンの中で唯一俳優でないの“真実の人間”である。
クリストフはドームの最上部にある管制室から、シーヘイブンの天候から日の出まで、すべてを思いのままに操る。
トゥルーマンはなぜシーヘイブンから出ることができないのかというと、幼いころに父親を嵐で亡くしているからである。だが、この嵐も当然クリストフが仕組んだものであり、目的はトゥルーマンに海への恐怖を植え付けるためである。父親は実際にはシーヘイブンの外で生きており、父が生存しているのではないかとトゥルーマンが疑ったことも、トゥルーマンが世界に対し疑念を向ける理由となる。
過保護な「親」としてのクリストフ
一方で、クリストフの支配は、神であると同時に「親」のようなものとして描かれていると思う。
番組のスタッフたちが着ているTシャツには、「彼を愛せ、彼を護れ(Love him, protect him)」という標語が書かれている。クリストフは、自分はトゥルーマンを愛し、守っているのだと本気で信じているのである。
そのことが最も鮮烈に表れるのが、終盤のクリストフとトゥルーマンの対話である。世界の果てにたどり着いたトゥルーマンに、クリストフは天上から父親のような温かい声で語りかけ、外の世界の危うさを説き、ここに留まるよう懇願する。
Listen to me, Truman. There’s no more truth out there than there is in the world I created for you. The same lies. The same deceit. But in my world, you have nothing to fear. I know you better than you know yourself.
トゥルーマン、外の世界に、私がお前のために創った世界以上の真実なんてありはしない。同じ嘘、同じ欺瞞があるだけだ。だが、私の世界なら、お前は何も恐れることはない。私はお前自身よりも、お前のことをよく知っているんだ。
そして、クリストフはトゥルーマンに親のように語りかける。
I was watching when you were born. I was watching when you took your first step. I watched you on your first day of school.
私はお前の人生をずっと見てきた。生まれたときも、初めて歩いたときも見ていた。お前が初めて学校に行った日もだ。
ところで完全な余談だが、クリストフを演じているエド・ハリスはスキンヘッドで非常に威厳のある、“創造主”に相応しいオーラをまとった俳優だが、実は公開当時47歳(1950年生まれ)であり、ジム・キャリー(1962年生まれ)とは12歳差しかない。そんな俳優が「お前を生まれた時からずっと見ていた」と語るのは、俳優の実年齢を知ってしまうと若干シュールなのだが、しかしエド・ハリスの年齢を知らなければ全く違和感はない。しかしこれも、“現実世界”を一度知ってしまったせいで違和感を感じるという、ある種「トゥルーマン・ショー的な現象」と言えるかもしれない。
話が横に逸れたが、クリストフはトゥルーマンに対し、親のように話しかける。「トゥルーマン・ショー」の中で父親が死んだことにさせられるのが、ある種必然かもしれない。なぜなら、トゥルーマンの父親としての役目を担っているのはクリストフだからである。
このように優しく話しかけるクリストフだが、真にトゥルーマンに対して親心を持っているのかというと、そうではないことが物語のラストで露呈する。
クリストフの語り掛けに対し、トゥルーマンが沈黙したまま動かないと、クリストフはこう叫ぶ。
Well, say something, goddamn it! You’re on television! You’re live to the whole world!
何か言え、ちくしょう。お前はテレビに出てるんだぞ!お前は全世界に配信されているんだぞ!
結局のところ、クリストフはトゥルーマンを優しく見守る親ではなく、トゥルーマンの人生を自分の手の中に収めておきたいというだけだったのだ。
矛盾した観客の歓声
トゥルーマンがシーヘイブンを脱出した時、世界中でこの番組を観ていた人々は、一斉に歓声を上げる。「やった、抜け出したぞ!」と。バー(この世界には「トゥルーマン・ショー」をほぼ専門で放送するバーが存在する)で、自宅で、人々は涙を流して彼の脱出を祝福するのだ。
しかし、冷静に考えるとこの観客の完成は奇妙である。
トゥルーマンが番組から脱出するということは、彼らが30年間楽しんできた娯楽が終わってしまうということだ。視聴者は、自分たちの楽しみが終わるときに、歓声を上げているのである。
視聴者はトゥルーマンに自分を見ていた
トゥルーマンを30年もの長きにわたって閉じ込め、消費してきた視聴者が、その解放に涙する。これは明らかな矛盾だが、私は視聴者はトゥルーマンの中に、自分自身を見ていたのだと思う。
決められたレールの上を歩き、毎日同じ挨拶を交わし、ほんとうはどこか遠くへ行きたいと願いながら、踏み出せずにいる。それは画面の中のトゥルーマンであると同時に、画面のこちら側にいる視聴者自身の姿でもあった。だからこそ、トゥルーマンが壁の向こうへ踏み出した瞬間、人々は自分のことのように歓喜したのではないか。
それは、『トゥルーマン・ショー』という映画を見る現実世界の私たちが感じるカタルシスと同じである。私たちは
だが映画には、その直後に痛烈な場面がある。それが、感動的な脱出を見届けたはずの警備員のこの台詞だ。
What else is on?
Yeah, let’s see what else is on.他に何やってる?
ああ、他に何やってるか見てみようぜ
つまり彼らは、ひと呼吸おいてあっさり別の番組を探し始めるのだ。
物語の感動を一気に陳腐なものにするこのシーンは、極めて批評的である。トゥルーマンの30年の人生をかけた脱出劇は、あっさりと消費されてしまう。これは、トゥルーマンの30年は視聴者にとっては所詮その程度だったということを表すのかもしれない。しかし、それが人生なのだ。そして、だからこそトゥルーマンは、自分の人生を歩むべきだったということなのである。
おわりに
ここで重要なのは、トゥルーマンの人生は視聴者にとってはただの娯楽に過ぎなかったということではなく、トゥルーマンがシーヘイブンからの脱出によって自分の人生を取り戻したということである。
トゥルーマンは映画の最後、扉を抜ける直前にカメラに向き直り、もう一度あの台詞を口にする。
それと、会えなかったときのために、こんにちは、こんばんは、おやすみ!
毎朝の挨拶として繰り返されてきたこの言葉が、ここで世界中の視聴者への別れの言葉として響く演出は見事である。そしてトゥルーマンは一礼し、扉の向こうへと姿を消す。
トゥルーマンのように、人生のすべてを舞台装置の中で過ごしているという人間は、現実世界にはいない。しかし、身近なクリストフともいえるような他人や環境のせいで、自分の人生を歩めなくなっている人は多いだろう。『トゥルーマン・ショー』が描くのは、自分の人生を自分で歩くことの大切さであり、その勇気なのだ。
だが一方で、このリアリティショーが人気を集める現代に生きる私たちもまた「トゥルーマン・ショー」の視聴者のように他人の人生を覗き見する側でもある。監視され、レースの上を歩くことを強いられるトゥルーマンは私たちである。同時に、他人の人生を娯楽として消費し、見届けたそばから次の刺激へと移っていく視聴者もまた、私たちなのだ。前世紀の末に撮られたとは思えないほど現代的な意義を持ったこの映画をもし見たことがない方はぜひ見てみてほしい。
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ジム・キャリーが『トゥルーマン・ショー』の次に演じたのは、『マン・オン・ザ・ムーン』という映画でのアンディ・カウフマンという実在のコメディアン役だった。この映画も一種、現実と虚構が混沌とする物語で、興味のある方はぜひ見てみてほしい。本ブログにも感想を記している。